『浮世の画家』(カズオ・イシグロ著、飛田茂雄訳)

『浮世の画家』(カズオ・イシグロ著、飛田茂雄訳)

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 2016/01/22記(見出しなど再編集しました)

ゆったりと語られていく

 カズオ・イシグロの作品をすべて読もうとしております。
 1986年にウィットブレッド賞を受賞した第2作『An Artist of the Floating World』を翻訳した『浮世の画家』です。
 正直、きわめてそそられない題名。「浮世? 画家? 浮世絵じゃなくて?」的な感覚もありつつ、おそらく「全部読む」と決めなければ読まなかったであろう作品です。今回はhontoで購入した電子版で読みました。

 もうちょっと、表紙はいい感じにしてほしいとは思うのですが……。

 とてもゆったりと語られていく作品です。その画家が主人公で、一人称で書かれています。現在から過去を思い出していくので、例によって記憶については常に懐疑的です。確かにそう言ったはずだ、と思いつつ記述していくのですが、読者から見れば「間違いではないか?」「思い過ごしではないか?」「勘違いではないか?」と疑問を持ちながら読むことになります。

戦後に価値観が一変

 この画家は、戦前、戦中、戦後と生きてきた人で、その時代に青春を過ごし、絵に対する情熱を燃やしたわけです。時代の変化によって、正しいと思った方向に進んできたはずでした。それが戦後に価値観が一変したために戸惑っています。
 戦後、自分の感じてきたこと、やってきたことが間違いだったかもしれないと考える中で、どれが正しく、どれが間違っていたのかを思い返していきます。
 その間に、娘の結婚や孫との語らいなどの「いま」が入ってきますので、読者としては、人間というものが持つ尊大さ、思い込み、間違ったことについての捉え方、記憶のどの部分を評価するか、といった面を考えさせられながら読むことになります。

 ときには、エゴイスティックに「自分こそ正しい」と主張したり、画家としてのポリシーについて頑なに自分の考えを突き詰めようとしたり、それでいて家族の言葉に耳を傾け、「いまの考え方」にも理解を示す。理解をしつつも、「でも、そこは違う」と言いたくなったりします。

 子どもの頃は「生まれつき性格にひとつの傷がある」と見られ、絵描きになることを父親は反対します。でも彼は「お父さんが燃やすのに成功したのは、ぼくの野心だけだ」と画家の道を選びます。

 主人公は野心いっぱいの画家なのです。やがて「百万人に反対されようとも、自分の頭で考え、独自の判断を下す」人間になっていきます。

 画家修業の経験から「決して群集に盲従してはならぬ、自分が押し流されていく方向を注意深く見直せ」という教訓を得て、その後もその通りの行動をしていきます。それが戦後には、彼の汚点にもなります。

読んでいて疑問に突き当たる

 現代の老いた彼は、昔の知り合いを訪ねて、確認をしていきます。自分はどういう人間だったのか、確認したくなるのですね。気が済まないのです。それでいて、最終的には、自分は正しかったということにして安堵する、妙に小心なところもあります。

 これだけしっかりと画家として歩んできたはずなのに、孫に作品を見せることもできず、孫と怪獣映画に行くこともできず(別の日に行くわけですが)、孫にお酒を飲ませることもできず……。こうした現状を見ると、読者としてこの人物は、本当にここで語っている通りの人物のなか、という疑問に突き当たるわけです。

 ひるがえって、じゃあ、自分はどうなのか。読者は安全な場所でこの人物をせせら笑うこともできますけども、自分がやってきたことはどうだったのか。この作品はやがて読者にも迫ってくる感じがあるのです。単に「戦前は悪」とか「戦後のアメリカ礼賛もどうか」といった論点ではなく、時代のせいだけにできるのか。

 彼の野心はやがて、自分ならではの作品へと進み、師匠や仲間と決別していきます。
 作品では終わりの方で、決別したモリさんに再会するために別荘へ行くシーンもあるのですが、彼は結局そこで考え方を変えてしまいます。
 私としては、ぜひそこでなにかしら対峙してほしかったのですが、そうではない結末に進んでいきます。

思うままに生きることとは?

 凡庸から脱したい。その野心のままに生きてきた主人公の、いかにも凡庸な一面。そこにある自己満足は本当の満足なのか。それとも、自己欺瞞の上に成り立つ幻想なのか。読者にははっきりとはわかりません。

 なお、このタイトル「浮世の画家」とは、作品の半ばぐらいになってようやく意味がわかってきます。これは、まじめに語ればけっこうおもしろい議論になりそうな部分なのですが、もちろんこの作品ではそういうことにはなりません。

 芸術とは? 野心とは? 自分の思うままに生きることとは?

 さらにそうやってきた人生を、私たちはどのように肯定するのか。または否定するのか。

 そんなことを考えさせられる作品でした。

 この作品では主人公は絵について語る部分はあまりなく芸術論もほとんど出てきませんから、なにも芸術に限ることはないかもしれません。「仕事」と置き換えても差し支えなさそう。そのあたりは普遍性にも配慮されていると感じました。

 例によって小津安二郎の映画的な世界もあるものの、明治の文豪による作品的な雰囲気もあって、私は夏目漱石の三部作(『三四郎』『それから』『門』)を読んだときを思い出しました。

 喩えていえば、この作品は、墨の濃淡だけで山紫水明を浮かび上がらせる水墨画のように、どうでもいいような周辺のことや、日常の会話をちりばめていきながら、徐々に主人公を浮かび上がらせ、同時に彼が負ったテーマを読者に投げかけていく手法を取っています。速読やあらすじが役に立たない世界、文芸だからこそ伝えられる世界を提示してくれています。

文庫版、電子版があります。

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本間 舜久

本間 舜久

投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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