濃密な人間ドラマに心を揺さぶられる『少年と犬』(馳星周著)

『少年と犬』(馳星周著)の紹介

〈目次〉
男と犬
泥棒と犬
主婦と犬
娼婦と犬
老人と犬
少年と犬

 あざとさを軽々と吹き飛ばす巧みな構成と描写。闇を抱えた登場人物とそこに現われた犬が織りなす人間ドラマ。各エピソードごとに、深く心に残る。そして最終話ではさらに大きく心を揺さぶられることになる。著者独自の世界を楽しめる。直木賞受賞作。

まだ読んでいない人への紹介

「動物と子供」からの……

 映画やドラマでは「動物と子供には勝てない」とよく言われる。役者としてかなわないという点だけではなく、興業的にも、動物と子供が出てくる作品ならハズレが少ない、といった意味があった。
 そのため、名うての作家にとって、このあざとさたっぷりのテーマに踏み込むことは簡単ではなかったはずだ。
 馳星周は、おそらく承知の上で、どうしても表現したいことがあったから『少年と犬』を書いたのだろう。それは人物の描き方と犬の描き方の双方にはっきり現われている。
 すでに2015年に犬にまつわる短編集『ソウルメイト』を刊行。さすが自身も犬好きで深く関わっている著者ならではの作品と言われていたこともある。次はどんな「犬もの」を描くのか、期待されていたところだった。
 雑誌での発表順では、最後のエピソードがもっとも古い。つまり、表題となっている『少年と犬』があって、それから冒頭からの連作へと執筆していったのだ。
 あざとさを軽々と吹き飛ばすのは、犬に絡む人々の存在だろう。犬と子供を出せばいい、といった安直さは微塵もない。人々の物語が濃密だ。それも多くの人にとっては、お手本にはならないであろう人々が多数登場する。
 そして、犬が存在しなければ語られなかったに違いない物語が展開されていく。

見本市のように著者のさまざまな面が

 連作で、それぞれに登場人物が変わっていく。「男と犬」と「泥棒と犬」は直接つながっているが、ほかは間が飛んでいる。その間を含め犬はものすごい経験をして日本列島を釜石から熊本まで移動するのだ。6年もかけて。
 それぞれが完結した作品でもあり、それぞれにおもしろさと心を揺さぶられるポイントが違う。なによりも各エピソードに登場する人たちの置かれた状況と、犬との出会いによって起きた変化、さらにそこからこれまで顧みなかった過去の自分と向き合うなど、それぞれに心境が変わっていく。
 巧みな作品づくりは、著者の創作の見本市のようでもある。

犬の描写はしだいに濃くなっていく

 冒頭の「男と犬」には、犬に関する外観などの描写はほとんどない。読み進むにつれて、私たちはその犬がどういう姿と行動をするのかしだいにわかってくる。もっともカバーにそれらしい犬の絵が描かれてしまっているので、この犬なのだろうなと思うしかないのではあるが……。
 抑制された描写によってくっきりと浮かび上がってくる圧倒的な犬の存在感。それが本書の魅力だ。しかも、この犬の描き方が著者独特のドライさで、作品に緩みは生じない。

物言わぬパートナーとして

 犬をはじめペットの動物たちは言葉をしゃべらない。意思疎通がとても難しい。その中では、犬は比較的、心を通わせやすい動物として知られている。
 私は擬人化された動物の出てくる作品をかなり前からあまり好まなくなっていて、犬を飼うようになってからそうなった気がしなくもない。犬を飼う以前の子供の頃はディズニーの作品やドリトル先生シリーズなどが好きだったのだが……。
 そして『少年と犬』では、犬はそのままの姿で登場し、登場人物たちと心を通わせる瞬間があるものの、実際にはよくわからないままである。等身大の犬としてしっかり描かれている。そこがいい。また、同じような形式の作品たとえば『ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー』(ダン・ローズ著)と比較してもおもしろい。

ハードボイルドと犬

 古く『犬笛』(西村寿行)をはじめ、犬の登場するサスペンス、ミステリー作品は少なくない。
 著者はそうした過去の作品の系譜としてこの連作を位置づけられることを承知の上で書いているはずなので、わかるはずがない犬の心理描写はない。それどころか、犬の描写を最小限にしている。
 犬は犬自身の考えで行動する。人のためになにかをするのではない。この作品でもそれは最後の最後まで貫かれる。犬は自分で決めて旅をし、時に人の助けを借りる。そして助けてくれた人の救いとなる。ただそれは人の勝手な思いに過ぎない。本当に犬が私たちの推測したような意味で行動しているのかはわからない。
 わからないまままでいい。「名犬○○」のような人の都合のよい大活躍はしない。それでいて、しっかりと役割を果たす。

リレー形式ならでは

 この連作では、途中のエピソードでは犬は最後に自由にならなければならない。人と出会った犬が、どのようにまた自由になっていくのか。そこが各エピソードのクライマックスになる。
 読者も「どうなるのか」とハラハラドキドキで読み進む。
 簡単なようで、これは簡単ではない。とくに、擬人化されず人の気持ちをわかっているのかどうかわからないままに犬として行動させ続けるのだから。
 犬は首輪、リード、ケージなどでつながれる存在である。
 自由になるということは、それらが外れなければならない。
 しかも、物語のクライマックスと絡めなければならないのだ。
 この連作は、いかにも必然的に犬はまた野に放たれる。それがとても自然で美しく哀しく切ない。

「多聞」という名

 名前だけは早々にわかる。だが飼い主には連絡が取れない。多聞の意味は最終章の『少年と犬』に詳しいのであえて掘り下げないが、文字だけでピンとくるだろう。
 カバーの絵。その印象的な耳。犬は「立ち耳」と「垂れ耳」がある。ここで登場する多聞は立ち耳。これはまさにレーダーだ。
 先日、テレビ朝日の「ことば検定」で、林修氏が「犬」の漢字の右上の点は耳を表していると解説していた。犬は嗅覚がよく知られているが、聴覚も優れている。およそ人間の2倍以上の音域(3万から5万ヘルツ)が聞こえているらしい。
 犬は聞く存在なのだ。しゃべらない。意思表示は限定的だ。それでいて、出会う人たちの言葉を真摯に聞く。相手がどんな人であっても、犬はしっかり聞く。聞いてくれる存在としてのパートナーのすばらしさがこの連作ではたっぷりと描かれている。
 この点で、犬を飼っている人なら多くの人が共感し、他のペットを飼った経験のある人にも通じるにちがいない、その存在の特異さがよく描かれていてうれしくなってしまう。

すでにお読みになった人への雑感

 震災からはじまって震災に終ることが、通して読むことでわかる。そしていまもなお、私たちの周辺には新たな自然災害が発生し、多くの犠牲があり、残された者たちにも深い傷が残っていく。
 馳星周といえば、『不夜城』『夜光虫』の印象が強烈で、どちらも強烈な欲望を持つ人たちが登場し、のっぴりならない状況の中で必死に活路を見出そうとあがく。あがいてもあがいても、出口は遠くなり、犠牲者が増えていく。こうして主人公の周辺に波紋のように、または大きな波のように、巻き込まれたり飛び込んで犠牲となっていく人たちを、主人公は否応なく心に抱えて生き続けなければならない。
 こうしたハードボイルド、ノワールの世界は、かつては特殊な世界(裏社会)で生きる者にだけ降りかかる心情だった。ハードボイルドの起源は、戦争である。とくに第一次世界大戦以降の悲惨さが人の心に大きな影を落としていく中から生まれた。
 戦後の日本のように、平和を享受する社会となってからは、ハードボイルドの世界は、ノワールの中に見出すことになった。命のやり取りを日頃からしているような世界でなければ成立しないからだ。
 しかし、阪神淡路大震災、東日本大震災以降、地震、豪雨などの災害が毎年のようにどこかで起きている状態となれば、いまの日本では誰もがハードボイルドに通じる非情さや心理的な傷を深めていく可能性が生まれている。まして2020年には新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的な流行によって社会が大きく変わっていく事態に誰もが直面していることを考えれば、『不夜城』『夜光虫』ほどではないとはいえ、いまを生きている多くの人たちが現実として焦燥感、満たされない欲望、手の届かない夢につながる一発逆転の道などを模索せざるを得ないと感じているのではないだろうか。
 この連作で、登場人物が、ノワールから徐々に一般的な人たちへ移っていくことが読み取れるだろう。
 これは、おそらく最終的には少年の前に犬が現われることを考えれば自然な構成なのだろうけれども、恐怖、不安、恐れ、焦燥感といったものが、闇の世界から昼間の日常世界へと広がっていったことを連想させるのだ。
 ともかく、馳星周が本作で直木賞を受賞したこともあって、新しい武器を手に入れたことは間違いなく、今後の作品がさらに楽しみになったことは確かだ。

(2020年7月31日、2021年3月7日追記)

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本間 舜久

投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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