ジレンマ、トリレンマ 豊かになれない構造

ジレンマ。相反する二つの事の板ばさみ状態。「ヤマアラシのジレンマ」は、心理学。愛し合うヤマアラシの雌雄にたとえて、カップルの距離感についての心理的葛藤を意味する。近づきたいが近づきすぎると嫌われるのではないか、など。「囚人のジレンマ」は、経済でも使いますが、ゲーム理論。協力することで最大の利益が得られるはずなのに、相手が協力してくれるかどうかわからない状況では、協力しない(つまり最大利益を放棄する)選択をしてしまう。
トリレンマ。哲学や経済学で出てくることが多いようです。2つの選択肢があるとき、どちらを取ってもそれなりの不利益が明らかなとき、選択ができなくなってしまう状態。「三すくみ」ともいいます。3者がにらみ合って動けなくなる状態です。
目次
国際金融のトリレンマ
ある取材でケインズ経済学の話が出たときに、唐突に「そういえば、トリレンマってあったな」と思い浮かびました。思い浮かんだことは、ネットで検索すると速いので、Wikiで確認しましたが、私が想起したのは「国際金融のトリレンマ」というやつでしたね。そうそう。マンデルフレミングモデルを拡張させたものなので、そもそもマンデルフレミングモデルが、極めて限定的な条件の下でなければ成立しないといった指摘によって、ぐらぐらしてしまった結果、このトリレンマもいまいちになっている可能性があるのですけども。
とてもシンプルな説です(あらかた忘れていましたが)。
a,自由な資本移動
b,為替相場の安定(固定相場制)
c,独立した金融政策
この3つの金融政策は同時に2つしか実現しないという説です。
たとえばEUに加わってユーロを通貨とすれば、aとbが得られますが、cを失います。
よく2者の関係では「ジレンマ」を使いますが、3つぐらいの関係性に絞れば、モデルが簡略化されてわかりやすいってことになりますね。このほか政治のトリレンマとか環境とエネルギーのトリレンマなどもよく使われているようです。
グローバル経済の不自由さ
aの「自由な資本移動」はまさにグローバリズムですね。自由になるはず。なのに、なぜか不自由。
グローバル経済を実現した国では、同時に実現可能な金融政策はあと1つしかない、と解釈できないでしょうか?
為替を安定させるか、金融政策の独立性を保つか、どっちか。
いまの日本に当てはめると、たとえば孫正義さんが大規模な買収をしたり、台湾企業が日本企業を買収するなど、資本移動はかなり自由度が高い。
そこで、もし為替相場を安定させようとすれば、金融政策の独立は実現できなくなる。為替相場によって日本の株価が変動している今日この頃ですが、株価を上げるための円安誘導を図りたいと考える人たちもいます。少なくとも1ドル100円では「よくない円高」だ、と。110円ぐらいにならないか。
そのとき、金融政策の独立性をとるか、資本移動の自由を諦めるか。
グローバル経済では資本移動の自由を諦めたら本末転倒なので、前者となる。つまり、日本銀行などで実行できる金融政策は限定的になってしまう。
アメリカの利上げやブレクジット
広く世界を見ると、いま中央銀行はどこも苦しい状況です。低金利、マイナス金利で、緩和路線を継続せざるを得ない。唯一、アメリカだけが、利上げを継続させようと必死になっていますけども、まだ成功するかどうかわかりません。
各国の中央銀行の取り得る手段が減っている状況は、aとbを両立させようとしているからではないか。
ブレクジット(英国のEU離脱)も、結局は通貨統合に参加しなかった英国は、cの「独立した金融政策」を確保するために選択したのではないか。
一方、各国で台頭しているナショナリズムは、このa「自由な資本移動」を制限していきたい、という発想だとも取れます。
bとcを重視することは、たとえば他国などから影響を受けずに自分たちに有利な金融政策を取りたい、という発想であるとか、資本移動を制限して国内産業を保護(ひいては雇用の安定)を実現しようという発想は、「自分たちの国を取り戻す」行為として、ナショナリズムとの相性がとてもいい。
アメリカを取り戻そうというトランプ大統領の政策もまた、3つすべての自由を得たい。アメリカファーストでやりたい、ということで、それを阻害する条約「環太平洋経済連携協定(TPP)」などもってのほか、ということでしょうか。
公共投資をしても自国の利益にならない
たとえば、この背景として公共事業によるGDPの引き上げ、という発想があります。公共投資をすれば、自国の利益になるのは当たり前だったのは、グローバリズム以前の話です。
いまは、たとえば、日銀がいっぱい紙幣を印刷し、それを使って公共投資を行ったとして、必ずしもそれが日本の資本として繰り入れられるかどうかは、わからない。資本移動の自由が完全に確保されていればされているほど、日銀の産み出した信用(紙幣)は、どこかわからない国を潤す可能性が出てきます。帳簿上では日本の資産となっていても、その資産から生み出される利益が日本では計上されない、といった可能性です。資産デフレはさらに深刻になります。
この構造は、なにも東京オリンピックの施設を外国企業が引き受ける、といった直接的に見えるようなケースだけではない点に注意が必要です。
公共事業を引き受けたゼネコンが、そこで得たお金でドバイにある現地の合弁会社に投資をするとか、建設機メーカーが公共事業で経営が安定したことを活用して、ブラジルの企業を買収するとか、間接的にも発揮されていきます。
金は天下の回りもの。ですが、その「天下」が、この言葉が生まれたときより地球規模にでかくなっているので、生きている間に回ってくるかはわからないのです。
この結果、日本にいる人から見ると、「おかしいな。自分たちの税金をつかい、なおかつ国債をいっぱい発行して産み出したはずのお金が、自分たちのところにはちょっぴりしか戻って来ないよね。だけど、国際企業は世界に進出して潤っているように見えるよね。これって、格差を拡大させていることにならない?」と思える。
その反動で、ナショナリズムに賛同しやすくなる。
アメリカファースト。都民ファースト。なにをファーストにするかは自由ですが、実際になにかをファーストにすると、ほかが不利益になるので敵を作ることになります。
グローバル=自国への忠誠を減らすこと?
グローバリズムとナショナリズムが正反対なものとするなら、グローバリズムを推進するためには、ある意味のアナーキストになる必要が出てきます。これは、かつての左翼的な意味での無政府主義ではなく、「自分たちのことばっかり言うのはやめよう」といった感覚のものかもしれませんが、自国政府へのウエイトが減ることは間違いない。
国民が、自国政府のウエイトを減らすとき。困るのは誰か? 政治家と官僚と役人と軍人と軍産複合体と税金で生活している人たちです。「見放された」と思うでしょうね。「自分たちの国がどうなってもいいのか」と訴えるでしょうね。グローバル経済の推進をよしとして、自国政府のウエイトを減らした人たちを「おまえらそれでも日本人か」と非難するでしょう。
みんなで仲良くやろうよ(グローバリズム)と思っていたのに、いつの間にか身内を敵にしている。国が二分していく。
しかし、世の中のグローバリズムは着々と進んでいます。これを止めることは簡単ではありません。
たとえば、仮想通貨。ビットコイン。その裏づけとなるブロックチェーンという技術。慌ててアウトラインを勉強した結果、私が得た感触は、「マイナンバーなんていらないじゃないか。自分が自分であることを証明するには、ブロックチェーンでできるんじゃないか」という発想です。ここは飛躍していますけどね。ブロックチェーンはある取引が本当にあったことを記録していくことによって証明していく技術で、それがあるから、ビットコインは「仮想」なのに、信用を発生させることが可能となっている。英語ではCryptoCurrency、暗号通貨と呼ばれていますね。こっちのほうが本来なのかも。
ブロックチェーン経済は生まれるか?
かつて、自国の利益を最大にしようとした結果、世界経済はブロック化し、それが世界大戦へと向かわせる圧力となったと言われています。
いまは、ブロック化よりも、ブロックチェーン。取引情報を複数重ねて一括でチェーンのようにつなげて使う。この発想はなかなかのものです。Aという取引、Bという取引、Cという取引があり、それぞれが承認されていて、ABCという1つのパッケージになっていると、Bだけ抜き出してAZCという列にすることはできません。ABCZになる。つまりABCは改変できないので、安全ということになるわけ。
これは、たとえば、特急列車で4人掛けのボックスシートに乗り合わせた4人の人たちが、途中でやってきた車内販売からそれぞれに飲み物を購入したとして、無関係な4つの取引だけど車内販売から見れば1つの連続した取引に見えるので、それをワンパックで保存するようなものです。まったく偶然に乗り合わせた4人ですが、車内販売の記録によって相互にアリバイを証明することができます。
これは、ある人が、父と母の子であることを証明するのにも使える。戸籍はいらない。ブロックチェーンで記録していけば、世界中の人を系統立てて記録できてしまう。
世界中で「あいつはあいつで間違いない」と規定することができれば、それで終了です。
おお、だんだん、SFっぽくなってきたぞ。
ビットコインが一般化すれば、為替がなくなる可能性が生まれます。もちろん、新技術ができて古い技術のものが完全になくなる例はむしろ少ないので、ここでも極論を言っているわけですけれども。
自国通貨と他国通貨を取り換える必要がない。ビットコインで日本でもアメリカでもフランスでもレストランで食事ができる。給料がビットコインで得られ、納税もビットコインでできれば、それでいい。
さらに、「ふるさと納税」の世界バージョンが生まれる。「おれ、ジャマイカに納税したい」と思うかもしれない。それができるようになるかもしれない。
そしてある日突然、目の前に「おまえのカネでこの子が無事に産まれたぜ」とレゲエミュージシャンが家族連れでやってくる、なんてことがあるかもしれない。
靴を買おうと思ったけど、そのお金でアフリカの子どもたちのワクチン代を提供したとする。すると、国内から「困っている私たちよりアフリカの子どもかよ」と非難されるかもしれない。
グローバリズムが進んで行くと、「清貧こそ美徳」という人たちと「ふざけるな、金持ちこそ最高」という人たちで対立することになる可能性もありますね。清貧に徹した人から流れた資金が、テロリストの武器になる可能性もあるし。お金持ちが自分たちを守るために対抗するテロリストを育成するかもしれない。「恩を仇で返す」があちこちで起こる。ネットであっという間に広まる「美しい話」と同時に、痛ましいテロが発生する。「おまえ、いらないって言ったよな、じゃ、おれ貰うから」みたいなジャイアン的な人たちがのさばる可能性もある。
すべてを持つ者と、すべてをむしり取られた者が生まれる──。
こうなると政策や経済というよりも、人間性そのものが試されることになるかもしれません。
いまの世界の混沌は、もしかすると、こうした大きな意味でのせめぎ合いの一端なのか……。
ジレンマ、トリレンマによる不自由を解消することは容易ではないのです。
(本稿は、かきぶろ「ジレンマ、トリレンマ 豊かになれない構造を考える 2016年09月15日」を元に改稿したものです)
参考になる書籍
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(ジョセフ・E. スティグリッツ著、鈴木主税訳)
『グローバリズムが世界を滅ぼす』(エマニュエル・トッド、ハジュン・チャン、柴山桂太、中野剛志、藤井聡、堀茂樹著)
『「国家」の逆襲 グローバリズム終焉に向かう世界』(藤井厳喜著)
『グローバリゼーションを擁護する』(ジャグディシュ・バグワティ著、鈴木主税、桃井緑美子訳)
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