クライマックスはふいに訪れる。『離陸』(絲山秋子著)

離陸
絲山 秋子 (著)
タテヨコにさらに現在過去に
この作品を読んで、あらためて小説とはなにか、物語とはなにか、と考えた。
読者が、過去にどのような本を読んできたかによって、『離陸』の楽しみ方もまた大きく変わってくることは間違いがない。
読み始めてすぐに、この本は『サラバ! 』(西加奈子著)に似たニオイを感じた。作品が似ているのではない。『サラバ! 』は日本とエジプトをつなぐ大きな物語の流れに、読者を巻き込んでいった。そこに少年の成長を中心とした多層的な物語が組み込まれていた。
きっと、『離陸』もさまざまな物語がタテヨコにさらに現在過去にと織りなす、おもしろい作品に違いないと感じたのである。そして、そのとおりに、読んでいる間も楽しめて、読み終わったあとの余韻も心地よかった。
そして、さらに著者が提示する著者自身が影響を受けた他の作品へと、読者を結びつけてくれる点でも、うれしい作品だ。
ネタバレ的 連想と妄想と感想
以下、的外れは承知で私なりの連想と妄想と感想を書いておく。
冒頭はダム。主人公は公務員。「広大なダム湖は全面結氷し……」とある。厳冬の矢木沢ダムに主人公を訪ねてくる怪しい外国人。「小役人シリーズ」などと呼ばれたこともある名手・真保裕一による『ホワイトアウト』を思い出す。
だが、アクションは起こらない。謎が提示されるだけだ。突然やってきたその「熊、もしくは熊のようなもの」は、「サトーサトー」と呼びかけてくる。その男、イルベールはなに者なのか。ムリな状況で徒歩でやってきたのだから、目的があったはずなのだが、「女優を探してくれ」と頼んであっさり帰っていってしまう。
読者としては、この男はスパイであったり、または特別な任務を帯びた屈強な男だろうと想像するのだが……。
ヒチコック的な幕開けなのに、この作品は一切、ヒチコック性を排除している。そうしたサスペンスはない。つくらない。ストイックなまでに、登場する人物に忠実であろうとする作者。
小説はノンフィクションと違い、著者の思いしだいでいかようにもなるはず。そして「おもしろくしよう」とわざとらしく演出すればするほど、空疎になり、登場人物たちは人間性を失い、読む側もバカバカしくなっていく。
ダムで働く主人公とその周辺について、きわめて詳細に描くあたりは、新田次郎の作品を思い出させる。この描写は読者に側面的な知識を提供するだけではなく、主人公の生き方をはっきりさせるために不可欠なのだった。アクションのための伏線ではない。
本書には、あり得ない写真、謎すぎる女優、パレスチナ、謎の文書など、さまざまな小道具がちりばめられている。一方、目の不自由な妹、ブツゾウと名付けられた女優の息子、その父親の狂気など、登場人物たちにもさまざまな物語上の使命が課せられている。
それでいて、本書は、スパイ小説でも冒険小説でもないのである。『ガラスの街 』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)が、ハードボイルドに基づいた現代小説となっていったように、『離陸』は冒険小説的な要素、スパイ小説的な要素を活用して紡ぎ出した現代小説となっている。
ヒチコック的サスペンスがなくても、私たちは、物語を楽しむことができる。
イルベールが生まれたのはマルティニーク(Martinique)。カリブ海の島だ。女優が生まれたのは長崎の五島列島である。どちらの島も、過去にさまざまな物語がある。
主人公は三重の四日市で生まれ育ち、矢木沢ダム、パリ、八代と職場を転々とする。それは物語のための移動ではなく、役人としての人事異動である。また、役人を辞めた後も彼は移動していく。主人公は生きるために移動する。
そして、彼は見送る。離陸していく人たちを見送ることが、この物語では彼の使命なのだ。空港で飛び立つ旅客機を見送るように。
きわめて日常的な偶然が物語を動かす
たとえば、この作品のクライマックスはふいに訪れて、しかもなにも解決するわけではない。記憶も言葉も失った人物。妹の持っていた点字に訳された『ソロモンの指環』(コンラート・ローレンツ著)。
つまり、非日常的な仕掛けではなく、きわめて日常的な偶然が物語を動かす。
私が好きなのは、終わり間近で主人公が見せられる写真である。その中に写っている2人の人物と背景。謎はなに一つ、解けないが、そうした瞬間が実際にあったことを確認することで、心が揺さぶられる。
つまり合理的な解決はなくても、そのときどきに、きちんと生きてきたことを示す証拠を目の当たりにするときに、私たちは気持ちが動く。この写真は、謎の写真と対になっているのではないか。ということは、女優のやってきたことや謎の文書に書かれていることは、この作品全体と対になっているのではないか。裏表ではない。マダム・アレゴリの物語は、サトーサトーの物語と対になっている。アレゴリ(allegorie)は、アレゴリー(Allegory、寓意)である。
なお、イルベールは、HILBERT JAVELと綴る。HILBERTから主人公は「ヒルベルト変換」を連想する。だったら、主人公佐藤は、佐藤超関数を連想させるはずだが……。
さまざまに楽しむことができる小説は、いい小説だと素直に思う。
主人公が物語(アクション)のセンターにいないからといって、物語が成立しないわけではなく、全体像(どこでなにが起きていたか)がわからなくても楽しめる。考えてみれば、私たちは日常でそうやって生きていて、実際に物語を楽しんでいるのだから。
著者はあとがきで、自身を「短編書き」と感じているようだが、これからもどんどん「苦手な方」へ突き進んでいただきたい。できれば、茜を主人公とした作品をとも思うのだが……。
(初出:かきぶろ 2017年05月10日)
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