
世界同時発売されました
2021年3月に刊行されたカズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro)の8作目の長編小説「Klara and the Sun」。土屋政雄による翻訳で「クララとお日さま」として日本でも刊行されました。ノーベル文学賞受賞後初の長編とあって、世界同時発売されました。また、作品の語り手がAF(Artificial Friends、人工親友、人工知能搭載のロボット)という点からも注目された作品です。
構成は第一部から第六部まで。単行本448p。
私はhontoの電子書籍で読みました。
3つのオススメしたい点
著者自身、そして翻訳者などが過去に発言していたことと重なりますが、本書は次の3つの点から楽しめる作品になっています。
1、「わたしを離さないで」を読んだことのある読者、とくに若い世代の人たち。さらに「日の名残り」を読んだことのある幅広い読者たち。その両方にオススメできます。もちろん、本書が著者のはじめてとなる読者ならその逆で、本書のあとに「日の名残り」「わたしを離さないで」を読むのもいいのではないでしょうか。
2、きわめて映像的な作品です。ただしタイトルから想像するような「童話」ではありません。ファンタジーの要素はありますが、それを期待するとシンドイでしょう。出版前から映像化の話題が出ていたように、どのシーンも鮮やかに思い描くことができます。それは当然「光と影」ということです。
3、「もののあわれ」を想起させる作品となっています。多くの期待と、多くのはじめて著者の本を手に取る読者もいることから、賛否両論の作品となっていますが、私はこれまでの著者の長編作品の中ではもっともストレートに日本文学的「もののあわれ」を表現している作品と感じました。
ネタバレ的な感想
第一に驚いたのは、この作品は、AFによる一人語り。私小説なのです。私小説でありながら物語性を持たせることについては、「本格小説」(水村美苗)の冒頭にもあるように、日本文学の「私」と西洋の「I」の違いもあって、なかなかの困難さが伴います。かつてNHKのインタビューで、著者は日本や東洋的な「心」のありように触れていて、たとえば村上春樹の作品などにも「もののあわれ」を感じると述べていたと思います(原典が不詳につき記憶のみ)。
その観点からすれば、最初の長編作品「遠い山なみの光」からその傾向はありました。日本と英国の場面が切り替わると、雰囲気が大きく変わる作品で、それは日本の場面が過去であるというだけではなく、「直接は言葉にせずに読者の感情を揺さぶる巧みさ」が日本の場面では横溢し「心」にどう寄り添うかを試みていくうちに、同じセリフ、似たようなセリフが繰り返し繰り返し出てくる独特のリズムによって、そこはかとなく感じていく作品となっていたことからもうかがえることです。
そして本書では、それをなんと、人工知能搭載のロボットであるクララの「心」として表現しているのです。
ロボットのような無機質な存在に心があるのか、といった問題は、手塚治虫「鉄腕アトム」、シェリー「フランケンシュタイン」など古くから小説、映画、アニメなどの題材になっていますので、いまさらな感じもします。そもそもこうしたアニメなどで育った私たちは機械でも心があってもおかしくはない、万物に心は宿す、といった古典的な観念も多少はあるので、クララそのものには違和感はありません。
それでいて、読んでいくにつれて、驚かされることがいくつか出てきます。
優しい語り口と感情
クララについての外見の描写は少ないのですが、彼女を自分の友としたジョジーの言葉に「とても頭のいいAFです。フランス人みたいなAF。ショートヘアで、浅黒くて」とか、草むらで遠くが見えなくなるほどの身長といったこと、子どもの友達役として作られたのでおそらく子どもが嫌がらない大きさだろうと推察できます。私は勝手に映画「レオン」に登場したときのナタリー・ポートマンを想起していました。
第一部、第二部でクララの基本的な思考方法、そして奇妙なほど「お日さま」を信頼していることに私たちは違和感と微笑ましさを感じつつ読み進めていきます。いつも優しい語り口(いつも外を見たいという願望、同じ店に並ぶほかのAFとの関係性、窓の外に見える光景についての解釈)なのは、そう設定されているからでしょうが、読者としてはそれをアルゴリズムであるのか心であるのか、区別はつかないのです。
ジョジーの友となってからは、ジョジーのためになにができるのか、なにが最善なのかを悩み、口には出さないものの恐れを感じるようになります。単純に命令に従う存在ではないことが明らかとなり、判断して行動できるクララに、今度は読者である私たちが恐れを抱きます。病弱なジョジー。姉を亡くしてからジョジーのことに神経を尖らせている母。
さらに読者を不安にさせるのは、彼女の視覚情報です。ときどき、ボックスに分割されて、全体が見えなくなるのです。どうしてそうなるのかは読み進めていくとしだいにわかってくるのですが、私の推測では彼女の「感情」がそうさせるのではないでしょうか。不安、恐れがはっきりしてきたときに、しばしばボックスに分割されていくようなのです。それは故障なのか。欠陥なのか。それとも、別のものなのか。
いずれにせよ、読者はクララの中に「わたしを離さないで」のキャシー・Hを思わせる感覚があることに気付きます。それは古い友に出会ったような懐かしさと同時に、あの作品で感じたような悲しみを連想させます。
対比によるシンプルな構造
この作品は、「お日さま」とタイトルにあるように、人工知能の奇妙な太陽信仰、それを阻害するクーティングズ・マシンへの恐れ(憎悪とまではいかない)、さらに日が昇り、そして沈む現象や日が陰ることを情報として受け取り(お日さまからのメッセージとして)、自分(クララ)の判断につなげていく様子が描かれています。それは、光と影、都会と田舎、希望と不安、生と死、愛と喪失、向上措置を受けた子と受けない子、また向上措置で生き延びた子と亡くなった子といった、さまざまな対比を提示して、物語をシンプルに表現していきます。このあたりは、過去の作品にはあまりなかったほど、わかりやすいとも言えますね。
冒険と友情の話では終わらない
ロボットと少女(子ども)といった組み合わせは、みなさんもさまざまな作品で見知っているはずで、それは「ドラえもん」から、スピルバーグ監督作品「A. I.」などなど、数え上げたらキリがありません。そこには、夢とか希望とか勇気とか冒険、そして友情といったものが「これでもか」と過剰に詰め込まれていて、私たちは楽しみながらも涙したり教訓を得たりしてきたものです。
本作も、もしかしたら、そうした話になったかもしれません。
ですが、そうはならなかった。
それでも、私は最後の第六部に強く感情を揺さぶられてしまいました。そこで描かれているクララ(一人称なので最後まで彼女の視点で描かれています)の存在感に圧倒されます。私は幼い頃に読んだ「プー横丁にたった家」(A.A. ミルン著、E.H.シェパード絵、石井桃子訳)の最後の場面と同じぐらいの悲しみを感じました。そして心に残ったのが「もののあはれ」(もののあわれ)という言葉でした。
この作品は、カズオ・イシグロの最高傑作ではないかもしれませんが、だからといって読まずに済ませるにはもったいない作品であることには変わりありません。
(2021/05/05記)
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