『浮世の画家』(カズオ・イシグロ著、飛田茂雄訳)

 

 2020/02/12「芸術家と時代」を追記 2019/01/29追記 NHKドラマ化 2016/01/22記(見出しなど再編集しました)

ゆったりと語られていく

 カズオ・イシグロの作品をすべて読もうとしております。
 1986年にウィットブレッド賞を受賞した第2作『An Artist of the Floating World』を翻訳した『浮世の画家』です。
 正直、きわめてそそられない題名。「浮世? 画家? 浮世絵じゃなくて?」的な感覚もありつつ、おそらく「全部読む」と決めなければ読まなかったであろう作品です。今回はhontoで購入した電子版で読みました。

 もうちょっと、表紙はいい感じにしてほしいとは思うのですが……。(その後、いいカバーになっています)

 とてもゆったりと語られていく作品です。その画家が主人公で、一人称で書かれています。現在から過去を思い出していくので、例によって記憶については常に懐疑的です。確かにそう言ったはずだ、と思いつつ記述していくのですが、読者から見れば「間違いではないか?」「思い過ごしではないか?」「勘違いではないか?」と疑問を持ちながら読むことになります。

 NHKで2019年3月、ドラマ化されました。

 このドラマ化について、著者カズオ・イシグロがコメントを寄せていますが、そこにはこういうフレーズがあります。「小津安二郎や成瀬巳喜男といった私が敬愛する1950年代の日本映画のような、穏やかな家族ドラマを描いてみたいという思いもありました」
 

戦後に価値観が一変

 この画家は、戦前、戦中、戦後と生きてきた人で、その時代に青春を過ごし、絵に対する情熱を燃やしたわけです。時代の変化によって、正しいと思った方向に進んできたはずでした。それが戦後に価値観が一変したために戸惑っています。
 戦後、自分の感じてきたこと、やってきたことが間違いだったかもしれないと考える中で、どれが正しく、どれが間違っていたのかを思い返していきます。
 その間に、娘の結婚や孫との語らいなどの「いま」が入ってきますので、読者としては、人間というものが持つ尊大さ、思い込み、間違ったことについての捉え方、記憶のどの部分を評価するか、といった面を考えさせられながら読むことになります。

 ときには、エゴイスティックに「自分こそ正しい」と主張したり、画家としてのポリシーについて頑なに自分の考えを突き詰めようとしたり、それでいて家族の言葉に耳を傾け、「いまの考え方」にも理解を示す。理解をしつつも、「でも、そこは違う」と言いたくなったりします。

 子どもの頃は「生まれつき性格にひとつの傷がある」と見られ、絵描きになることを父親は反対します。でも彼は「お父さんが燃やすのに成功したのは、ぼくの野心だけだ」と画家の道を選びます。

 主人公は野心いっぱいの画家なのです。やがて「百万人に反対されようとも、自分の頭で考え、独自の判断を下す」人間になっていきます。

 画家修業の経験から「決して群集に盲従してはならぬ、自分が押し流されていく方向を注意深く見直せ」という教訓を得て、その後もその通りの行動をしていきます。それが戦後には、彼の汚点にもなります。

読んでいて疑問に突き当たる

 現代の老いた彼は、昔の知り合いを訪ねて、確認をしていきます。自分はどういう人間だったのか、確認したくなるのですね。気が済まないのです。それでいて、最終的には、自分は正しかったということにして安堵する、妙に小心なところもあります。

 これだけしっかりと画家として歩んできたはずなのに、孫に作品を見せることもできず、孫と怪獣映画に行くこともできず(別の日に行くわけですが)、孫にお酒を飲ませることもできず……。こうした現状を見ると、読者としてこの人物は、本当にここで語っている通りの人物のなか、という疑問に突き当たるわけです。

 ひるがえって、じゃあ、自分はどうなのか。読者は安全な場所でこの人物をせせら笑うこともできますけども、自分がやってきたことはどうだったのか。この作品はやがて読者にも迫ってくる感じがあるのです。単に「戦前は悪」とか「戦後のアメリカ礼賛もどうか」といった論点ではなく、時代のせいだけにできるのか。

 彼の野心はやがて、自分ならではの作品へと進み、師匠や仲間と決別していきます。
 作品では終わりの方で、決別したモリさんに再会するために別荘へ行くシーンもあるのですが、彼は結局そこで考え方を変えてしまいます。
 私としては、ぜひそこでなにかしら対峙してほしかったのですが、そうではない結末に進んでいきます。

思うままに生きることとは?

 凡庸から脱したい。その野心のままに生きてきた主人公の、いかにも凡庸な一面。そこにある自己満足は本当の満足なのか。それとも、自己欺瞞の上に成り立つ幻想なのか。読者にははっきりとはわかりません。

 なお、このタイトル「浮世の画家」とは、作品の半ばぐらいになってようやく意味がわかってきます。これは、まじめに語ればけっこうおもしろい議論になりそうな部分なのですが、もちろんこの作品ではそういうことにはなりません。

 芸術とは? 野心とは? 自分の思うままに生きることとは?

 さらにそうやってきた人生を、私たちはどのように肯定するのか。または否定するのか。

 そんなことを考えさせられる作品でした。

 この作品では主人公は絵について語る部分はあまりなく芸術論もほとんど出てきませんから、なにも芸術に限ることはないかもしれません。「仕事」と置き換えても差し支えなさそう。そのあたりは普遍性にも配慮されていると感じました。

 例によって小津安二郎の映画的な世界もあるものの、明治の文豪による作品的な雰囲気もあって、私は夏目漱石の三部作(『三四郎』『それから』『門』)を読んだときを思い出しました。

 喩えていえば、この作品は、墨の濃淡だけで山紫水明を浮かび上がらせる水墨画のように、どうでもいいような周辺のことや、日常の会話をちりばめていきながら、徐々に主人公を浮かび上がらせ、同時に彼が負ったテーマを読者に投げかけていく手法を取っています。速読やあらすじが役に立たない世界、文芸だからこそ伝えられる世界を提示してくれています。

追記 芸術家と時代

 テレビドラマ化されて、より全体像が見やすくなって、それでいてなおかつ、描かれてないであろう部分(それはドラマとしても小説としても)について思いを馳せてしまう自分(このコラムの筆者)に思い至りましたので、追記します。
 芸術家は自分にとって正しいと思う道を進む人です。たとえば、「いまの時代」を否定するのか。それとも肯定するのか。それによって作品の質や美しさは変わらないはずですが、評価は決定的に変化します。「いまの時代、自分が描くのはこれだ!」と発見したとき、師匠(かつての時代の人)やそれに気付かない周辺の人と葛藤しながら、自分ならではの作品を作っていくことになります。
 そして時代が変わったとき、時代を描き出した作品は、時代とともに消えていくのか。それとも残り続けるのか。それもまた、一概にどうなるとも言い切れません。ピカソは「これだ」と思って「ゲルニカ」を描いたはずです。さらに歴史的にも有名なのは、ナチスによる「退廃芸術」という価値観。その時代を支配している者たちによって「これが芸術だ、それは芸術ではない」と線引きすることの怖ろしさ、愚かさを私たちは知っているはずなのですが、いまの時代にそのことを声高に叫ぶ人もあまりいません。
 私たちが生きているこの時代を切り取る作品を作り出す芸術家たちが、すべて肯定的に評価されているわけではないように、時代が変わったあとにも、かつての時代で評価されていた芸術家たちが同じように評価されるとは言えません。ナチスほど極端に排除しないにせよ、「古い」とか「時代が違う」「いまの価値観に合わない」などの社会的理由によってメインストリームから遠ざけようとする力は働くことでしょう。
 カズオ・イシグロは、本書の前に書いた『遠い山なみの光』、本書のあとに書いた『日の名残り』ともに、「時代」と「個人」の関係性を描いています(そんな風に言ったらたいがいの小説や映画はそうなのですが)。私は「記憶」をキーワードとしてカズオ・イシグロの作品を読んでいますが、この「記憶」においては、たとえば本書『浮世の画家』の主人公の記憶では、自分が「これこそ自分の作品だ!」と自信を持って世に問うことができた「時代」の記憶が、もはやそれを否定される時代にいるいまの自分の「記憶」と同じなのか。それとも違うのか。それを確認したかったのではないでしょうか。記憶が間違っているのか。自分が間違っているのか。作品がダメなのか。時代が変わったことで、なにが変わったというのか……。
 これをあえて「時代」と「個人」の関係に限定して描くことで、歴史書のように「時代」と「社会」で描くのではなく、もっと「個」の「記憶」で描くことではじめて見えてくるものがあるのではないでしょうか。
 まったく話は違いますが、私はバブルと呼ばれた時代にすでに社会人として仕事をしていました。それでもいま(1990年以降)、一般的に言われている「バブルの時代はこうでしたね」といった社会的な時代感覚と、私の個人として記憶しているバブルの時代は、かなり違います。おそらくみなさんもそうではないでしょうか。
 戦争といった巨大すぎる歴史的な渦を経験したとしても、その中にいた個々の人々の記憶は、あとから社会の視点で描くような「時代」とはかなり隔たりがあるはずです。ただ、その隔たりは、その時代を生きた人の「記憶」の中でしか見つからないのです。
 カズオ・イシグロの描く作品には、曖昧模糊とした世界や混沌とした世界がよく出てきて私たち読者を惑わせるのですが、そのような表現にならざるを得ない理由があるはずです。それは「時代」と「個」と描くときに、「社会」を入れないように注意深く執筆しているからではないかと思います。私の個人の記憶にあるバブル時代は、いま社会として記憶しているバブルの時代とは違います。だから、社会として記憶した面を排除していかなければならないのです。「社会」の視点を入れてしまったほうがわかりやすくなるはずです。でも、それでは「個」が消えてしまう。社会視点の記憶は、都合よくわかりやすくまとめられたもので、多くの要素が抜け落ち、多様な視点も抜け落ちているからです。作品では、社会の視点は登場人物やその周辺の人たちの言動でのみ散発的に表現されていくので、バラバラで不統一で読者としてはなかなかスッキリと理解しにくい部分が残ってしまいます。
 そして、その奇妙で混沌とした記憶こそが、「個」である私たちとは地続きになっていることが、作品を読むことで理解できるのです。

 2020/02/12「芸術家と時代」を追記 2019/01/29追記 NHKドラマ化 2016/01/22記

新版も出ました。文庫版、電子版があります。

 

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本間 舜久

本間 舜久

投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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