ポール・オースターをつぎつぎと読んでいた時期があった。2011年5月。311の東日本大震災から間もない時期で、翌年にかけて読み続けた。
 きっかけは、当時、丸善丸の内本店4階にあった松岡正剛氏プロデュース「松丸本舗」の本棚に書かれていた「ブコウスキー、オースター、チャンドラー」の文字にインスパイアされて、読み始めたのだった。なにか、自分の中に欠けているものを満たしてくれると考えたのかもしれない。
 その頃の記事をほぼそのまま連載していきます。『ガラスの街』から『ティンブクトゥ』まで。
 そこに、別名義『スクイズ・プレー』を追加(2022/11/20)しました。
 末尾の「オースター著書リスト」は未読の作品も含めています。
 ポール・オースターについては、こちらをどうぞ……。
 プロフィール(新潮社
 YAMAGATA Hiroo Official Japanese ageのPaul Auster インタビュー(『GQ Japan』1996 年春 山形浩生)
 Paul Auster
1947年2月3日 USAニュージャージー州生まれ。『ガラスの街』、『幽霊たち』、『鍵のかかった部屋』は「ニューヨーク三部作」と呼ばれている。

『スクイズ・プレー』(ポール・ベンジャミン著、田口俊樹訳)

『スクイズ・プレー』(ポール・ベンジャミン著、田口俊樹訳)

正統なハードボイルド探偵小説

 ポール・オースターが脚本を手がけた映画『スモーク』。その主人公はポール・ベンジャミンという作家だ。本書はその作家によるハードボイルド小説。というか、ポール・オースターが、オースターとして作品を発表する以前に世に出していた作品。詳細は巻末の池上冬樹氏の解説にある。本編のほかこの解説とオースターの作品リストが充実しているので、本書はもちろん「買い!」である。
「独自の文体で新鮮な反探偵小説を書いたオースター」(池上氏解説)が、実は別名義で純粋な正統派ハードボイルド探偵小説を書いていたことに、読者はうれしくならないはずがないのである。一人称で貫かれ、主人公の私立探偵の視点で時系列に事件の全容が明らかになっていく。主人公の私生活や人生観、さらに職業観も反映され最後まで飽きさせない。なによりもハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドといった古典的ハードボイルド世界をきっちりと著者なりに消化している。依頼人はかつてはヒーローだったプロ野球選手。交通事故で足を失って、今度は政界にデビューしようとしている。その妻、そして依頼人を取り巻く人々の中にはイタリアン・マフィアのボスもいる。捜査は暴力的な妨害を受け、主人公は激しく傷つきながら真相へ辿り着く。
 こうした典型的なストーリーの中に、「他人の人生と関わりながら、まっすぐな道を望むのはそれは望みすぎというものだ」とか「自分の船がやってくるのを待つことをとっくの昔にやめてしまった者特有の生気のない顔」とか「われわれは死に出会うのではない。死は始まりとともにあり、われわれがどこに行こうとつきまとう」といった言葉がちりばめられている。そのたびに、読者はうれしくなるわけだ。
 このあとに、『ガラスの街』(シティ・オヴ・グラス)、『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』といわゆる「3部作」が書かれた。つまり、本書をしっかり書いたことによって、反探偵小説は生まれた、と言えるだろう。

蛇足

 なぜハードボイルド形式に魅了されるのだろう。そして、その限界を感じてしまうのだろう。恐らくポール・オースターもこうした作品を書き続けることの困難さに気付いたのかもしれない。もし書いているとすればそれも別名義なのではないか。ストイックすぎるし苦しい面も多く、類型化されがちでまったく新しいハードボイルドを書くのは困難。似て非なるものを書き続ける苦しみが見通せる。ハメットは短編は多数残しているが長編は6作ほどだ。チャンドラーも長編は8作、マクドナルドは25作ほどあるのだが、途中で正統派ハードボイルドから大きく逸れていく。魅力的なフォーマットでありながら、その形式に縛られていく心地よさと同時に不自由さが、著者を苦しめることになる。
 さらに一人称形式による「私小説」に似た側面から逃れることができない。ハードボイルド探偵は私小説形式のフィクションだから内面の変化と動脈硬化のように凝り固まって変わりようのない自分の核のようなものを改めて知り、深いため息をつく。最終的にはその核の部分に救われたりする。自分に自分が救われるってなんだ、という気もしなくもないが、それが私小説のひとつの形でもある。ミクロからマクロへ行き、ミクロを批判しながらミクロで救われるのだ。自分が自分であってよかった、というわずかな喜びである。

 

『ティンブクトゥ』 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)

『ティンブクトゥ』 (新潮文庫、ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 薄いのに、けっこう楽しめる作品になっています。
 表題の「ティンブクトゥ」は、天国のような死者が行くであろう場所のこと。
 語り手は犬。
 しかし、この作品は、動物を使った「感動もの」とはかなり違います。この作品については、あまり内容を書いてしまうと、はじめて読む人には損になると思いますので、冒頭も中盤も結末も触れることができません。

 ストーリーが込み入ってるわけでもなく、派手な仕掛けもなく。淡々と終わりまでいきます。

 だからといって、読む側は淡々とは読めない、というのがこの本のマジックです。

 語り手は犬なのですが、彼がやっていることは、これまでオースター作品を読んだことのある人ならお馴染みといってもいいほど、ほかの小説の主人公がやったことに似ています。

 とても楽しめる。コメディではないし、安直な感動作品でもありません。コメディの要素は豊富で、一歩間違えれば安直な感動ものにもなり得る。きわめて危険な細い道を、作者は慎重に慎重に進んでいきます。そのスリルもまた、読者としては、楽しめる部分かもしれません。
「そっちか!」ということが、しばしばあります。

 ラストシーンは、目に焼き付きます。

 ところで、犬など動物を「擬人化」することを、創作ではよくやるため、わたしたちは子どもの頃から、そういう考え方に慣れきっています。
 残念ながら、人間と動物には歴然とした違いがあります。人間にもわかるサインを発してくれて、お互いにハッピーな気分になれることもありますが、お互いに誤解して、困ったことになることもあります。
 この作品には、一部、その意味で犬を飼っている人が陥りがちな、誤解がありそうで冷や冷やしながら読みましたけど、おそらく作者は犬を飼ったことがあるはずで、全体としては犬の行動、反応をよく描いていると思います。少なくとも、安易なアニメっぽくはありませんので、安心して楽しめます。

(初出2012年5月29日 かきぶろ、2022年8月11日改訂)

『空腹の技法』 (ポール・オースター著、柴田元幸、畔柳和代訳)

『空腹の技法』 (新潮文庫、ポール・オースター著、柴田元幸、畔柳和代訳)

 順番としては、<a href=”http://blog.livedoor.jp/masu0504/archives/51975499.htm” target=”_blank” title=””>『ミスター・ヴァーティゴ』</a>よりも前に刊行されているのですが、こちらは、小説ではないのでちょっと敬遠していました。
 エッセイ、序文、インタビューからなっています。また、単行本よりは文庫本をおすすめします。文庫本には3編が追加されているから。

 でも、 お好きな方はどうぞ、という感じ。

 エッセイを読むと、その小説とはかなり違う印象を受けます。研究者、学者という感じ。律儀でマジメで。
 序文になるとさらに、そういう印象が強くなります。
 インタビューになると、これまでの読者やファンにとっては、少しうれしくなる内容になっています。これまでの作品を振り返って、いろいろ語っています。
 私としては、作品に比べると作者のことはそれほど興味がなく(失礼!)、こうしたものまで丹念に読みたいと思うことは滅多にありません。過去にもハメットやチャンドラー、スティーブン・キングなど大好きな作家について書かれたものでさえ、すべて挫折して積ん読化しています。
 これが不思議なところで、映画などでは、けっこう「メイキング」が好きだったりもするのですが、小説や芸術系については、あんまり……。
 テレビで作者が出て来て話をしたりしているところも、あんまり興味がないんですよね。だいたいつまらないし。
 そんなこともあって、この本は正直、どうでもいい本です(あくまでも私にとっては)。

 もちろん、利点もあります。作家オースターを通して、他の人物(詩人、作家)を知ることができる。エッセイの多くは詩についてのもで、そこでは、この本を読まなかったらおそらく知らなかったであろう詩人たちが登場します。
 私はほとんど詩を読まないのではっきり言って、チンプンカンプンですが、新しい体験というものは、だいたいチンプンカンプンなので、それはそれでいいんだと思っています。
 この本も、途中で挫折しそうになったものの、このところやっている「乱読」手法で、「四の五の言わずにページをめくる!」と自分に言い聞かせ、なんとか最後までたどりつきました。

 もう一つの利点は、後半のインタビュー。けっこういい質問もしていて、「オースターにこういう質問をするんだなあ」と妙なところで感心もします。
 そしてまた、それに、けっこうマジメに答えている著者がいます。はぐらかしている、ごまかしていると思える部分もありますけど、だいたいは誠実に答えようとしているように見えます。
 おもしろいかどうかは別として。

P88 詩とはむしろ、言葉が口のなかに残るように強いるべく言語を使うことなのだし、まさしく「声の苛立つ中身」をできるかぎり十全に体験し理解するための手段なのだから。

P207 二度と書けないんじゃないか、そういう気になってくる。この恐怖の大きさは、たいていの人にはわかってもらえない。書くというのはつねに、二度と書けなくなる危険を冒すことだ……やがて、時には新しい詩がやって来て、すっかり解放された気分になる。(略)出来上がったものを読んでみると、まるで駄目だったりする……書くことにはそれ自身の時間があって、向こうの好きなときにやって来るんだ……無理強いしても無駄だ。

P208 物語を語るということは、それを失うことだと思う。

P233 もっとも困難な路(みち)を選ぶことによってのみ、詩が創られる。(略)それ以上詩を破壊できない地点に達するための、終わりなき破壊の連続。

P397 最終的には、本を書くのは読者であって、作者ではないと思う。

P399 ある作品に我々が耳を傾けるとき、そこにはかならず、いわく言いがたい何かが働いている。これだ、と特定できるものではないが、その何かこそが大きな違いを生み出すんだ。

P401 (略)……一冊書き終えるたび、ものすごい嫌悪感と落胆でいっぱいになる。(略)あんなに時間をかけたのにこの程度か、と信じがたい気持ちになる。(略)あれはあれで精一杯だったんだとわかるまでには何年もかかる。

(初出2012年4月30日 かきぶろ、2022年8月11日改訂)

『ミスター・ヴァーティゴ』 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)

『ミスター・ヴァーティゴ』 (新潮文庫、ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 長編の小説ですが、「寓話」という点をあまり気にしないで、普通の小説として読んでいいのではないでしょうか。解説では、このストーリーの構造が「ピノキオ」に似ているそうですが、とても、本作を子どもに毎晩、読み聞かせるわけにはいかないでしょう。

 大きな話としては、ある少年がある男に救われ、育てられ、空が飛べるようになり、それから飛べなくなり、いろいろな状況にそれなりに対応し、いい判断もあればよくない判断もし、復讐もし、穏やかになり……。

 あんまり書けませんね。ストーリーそのものがおもしろいという点で、細かく語ってはいけないでしょう。

 映画でいえば「フォレスト・ガンプ」「チャンス」のような話ですが、もっとダークで、底知れない悪意もあります。ショッキングな場面もかなりあります。

 これまで読んできて、はっきり言えるのは「これが最初のオースター作品だったら、ほかの作品を読むことはなかったかもしれない」ということです。悪口ではなくて、すごくおもしろい話なのですが、じゃあ、ほかの作品も読みたいかと言われると、それほどでもない、満足して終わる感じがありますし、他の書籍もこれと同じようなものだろうと勝手に推測しそう。

 実は、これまでの作品の多くは、読者として満足していなかったのだ、と気づかされます。満足していないから、次々と読んでしまったのです。
 妙な喩えですけど、満足する状態は二つあって、食べ物だとよくわかると思いますが、「満足したのでほかのことをする」という意味での「満足」もありますが、「満足したけど、なんだかもっと欲しいからもっと食べよう」となる「満足」もあると思うのです。

 これまでの作品は、それぞれに読んで楽しく、満足もしましたが、「もっと欲しい、もっとくれ!」という感じでした。

『ミスター・ヴァーティゴ』はこれだけで完全に満足で、もう十分。お腹いっぱい。オースターはこれぐらいにしておこう、という感じになります。
 ムダな人物は出て来ないオースター作品らしく、本作も登場人物の役割がはっきりしていて、使い切っています。
 前半でムダなように見えた野球の話も、後半ではとっても重要な意味を持ちます。

 ところで、この作品では唯一、「人は飛べる」という部分だけファンタジーで、ほかはファンタジーになっていません。この話をかいつまんで聞いたら、「なにそれ」と言いたくなるような部分もありながら、「そうだよ、そうだよ」と思うことも多い。大人の読者は特に。

 いわゆる「大人の寓話」ってやつ? いやいや……。

 ただ、そんな風に言ったら、たいがいの小説は大人の寓話です。

 不協和音を入れないと気が済まず、アドリブを多様し、エンディングがどうなるのかさっぱりわからないまま演奏していたバンドが、不協和音を使わずに、曲全体から技巧的な気味の悪さと落ち着かなさをかもしだし、それでもちゃんとエンディングに向って進んで行く安心感を与えてくれている、そんな気のする本でした。
「今回はアドリブなしで」と言って、きっちり演奏したような感じ。

 だから悪くはない。これはこれでよし、ということで。

(初出2012年4月16日 かきぶろ、2022/08/04改訂)

『リヴァイアサン』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)

『リヴァイアサン』 (新潮文庫、ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 これまでのオースター作品を見ていると、個人の話、他人と個人の話。個人と個人(恋人)の話。個人と身内の話。個人と親、祖父の話。このように関係性が徐々に広がってきているように見えます。

 この作品では、三角関係、四角関係の中で、爆弾で死んだ友人サックス(自分の分身ともとれる)のことを描きながら主人公を語ります。

 個人から家族を描く段階で国家が入ってきてしまう、という部分がこの作品の特色であり、同時に、そのせいでなんだか、空中分解しているようにも見えるのですね。
 でも、おもしろい。『ムーン・パレス 』や『偶然の音楽』にある多様な物語のミルフィーユ状態を、この作品でも楽しめます。

 さて、ちょっと支離滅裂な作品にふさわしく(?)、今回はいつもよりいっそう、支離滅裂な作品紹介です。わかりにくさはご容赦ください。

 では、この作品。

 個人の段階からすでにあった国家(政府、政治、主義)とのつながりが、家族になると明確なテーマになることに気付かせてくれました。

 私の考えでは、

 個人<家族<コミュニティー<政治などの社会組織<国家

 となるようなイメージがありました。核に個人のある同心円のような形としてもいいでしょう。
 でも、現実には、国家も個人とダイレクトにつながっている。愛人や友人と並列に国家と付き合っている。

 ただそんなきれいな形ではなく、並列とはいかないところもあって、枠からはみ出てしまい、個人では見えていない部分でがっちりと食い込まれていることもあるかもしれません。。

――読者が私の本を手にとっている限り、私の書いた言葉だけが彼らにとって唯一の現実なんです。(P11)

 私が読んだのは、単行本なので、ページ数は文庫とは違うと思いますのであしからず。
 現実、という空間(小説)の中で、個人はどこまで自由でいられて、どのような関係性を築け、または関係性から逃れることができるか。
 そんなシミュレーションにも取れます。

――サックスは一九四五年八月六日に生まれた。(略)よく会話のなかで自分を「アメリカ初のヒロシマ・ベイビー」「ボム・チャイルド第一号」「核の時代に産声を上げた最初の白人」等々と形容したからだ。(P36)

――サックスはよく原爆(ザ・ボム)の話をした。それは彼にとって世界の中心的事実のひとつであり、精神の究極的な境界線だった。(P38)

 サックスは、結局、爆弾で死にます。原爆ではありませんが、一種のテロのようなものでしょうか。どうしてそっちに行っちゃうのか。それが謎といえば謎です。読み終えても、はっきりとは理由はわかりません、というかあんまり納得できません。

――ソローこそ彼の範であった。ソローの『市民的不服従』がお手本としてなかったら、サックスがああうい人間になっていたかどうかも疑わしいと思う。(P40)

 サックスは森をさまよったあげく、人生の大きな転機を迎えるのですが、最初の頃にこうした伏線があったとしても、読者は忘れてしまっていますけども……。ここでいわば政治、国家のテーマも出てはきていますが……。ほのめかしなのか、伏線なのか、たまたまなのか。

――だが彼という人間は元に戻らなかった。地面にぶつかる前の数秒間に、あたかもすべてを失ってしまったとすら思えるのだ。(P149)

 この奇妙な落下の件。これは、この本にある転機の一つなのですが、落っこちてさまよって消えていく、というのは、オースターの得意な世界に通じているかもしれません。

――すでに自分の肉体を離れていて、ほんの一瞬、自分が消えるのがはっきり見えたんだ。(P163)

 自分で自分を消す。自分を探偵に尾行させる。自分が探偵になって誰かを尾行する。こういうことが、世の中の仕組みとどういう関係があるのか、著者はとくに深く説明しません。オースターをずっと読んできた人にとっては、むしろお馴染みな感じもします。
 それが、つまらない、というのではなくて、「以前のあれは、これに投影されているのかも」と推測しながら読んでいき、ときどき肩すかしをくらうのも楽しみの一つ。そうそう、後半の終わりの方では、また名前を色で示すフレーズも登場します。
 自分で作った古い曲から、好きなフレーズを再利用する、というのは作曲ではよくある遊びですが、この作者は小説でそれをやります。

――影でいる日々はもう終わりだ。これからは現実の世界に入って、何かをしなくちゃ。(P170)

 作家である、詩を書く、とかやっていた人が、それを捨てて現実に向かおうとするのに、どういうわけか、今度は現実がどんどん遠ざかってしまう感じ。
 おかしいな、幻想がこれほど身近なのに、現実はどうしてこんなに遠いのか。

 これは現代を生きてる人には、共通性のある感覚かもしれません。日本は昔から、その境界線をあまりはっきりさせなくてもいい、という文化があったので、このあたりはむしろ「当たり前」な気もします。
 バーチャルな世界を現実の中でとらえる感覚ですね。

 現実の捉え方の違いは、おそらく、いま現実で起きているさまざまな問題を解決するにあたって、大きな差になっていくでしょう。
 たとえば年金問題。これほど幻想的な話もありませんが、同時にとてもリアル。自分が本当に貰えるかどうかもわからないのに、毎日、朝から悩んでいる人がいる。その悩みから解放されたいのか、それとも悩みを抱えて生きることをよしとするのか……。

 幻想を共通認識として捉えることができる一方、現実を捉えることはできないとすれば、どこに救いがあるのでしょうか。
 いや、これは本の感想というよりも、連想的に思った事に過ぎませんけれども。

――読者が一度読んで、忘れてしまってくれて構わない。墓を建ててやる必要はないさ。(P187)

 本は墓。「ある程度恒久的」という考え方が提示されています。これは、私も気に入りました。全面的に賛成とは言えないけど、雑誌のコラムなどのように特定の時期にのみ存在すればいい、とする考えとの対比では墓は「あり」です。そうか、本は墓なんだな、とあらためて思ってみると、おもしろい。
 この文章によって、この小説は墓なのだ、ということが示されています。
 だけど、死んだ人のことを、書くことができるのは、生きている人だけ。それが現実。そのため著者は、架空の自分の分身を殺して埋葬しているのかもしれないですね、物語の中で。
 死んだ者は、幻想の中でなにかを書いているでしょうか。いや、作者はそんなことは気にしていないか。

――生身の他人が一緒にいれば、現実世界だけで事足りる。それが一人でいると、架空の人物を作り出さずにはいられない。仲間がいないと駄目なのさ。(P195)

 これも、なんだかおもしろい言葉。この本そのものが、実はそういうことで成り立っている幻想なのかもしれません。いや、幻想なのですが、幻想を生み出す行為は「現実」なのであって……。

 リヴァイアサンとは、旧約聖書に登場する海の怪物。1651年(日本では徳川家光が死んだ頃)に、トマス・ホッブズの書いた本のタイトルでもあります。この本にも、「自然」と「人間」というテーマがあるそうで、その点では、ソローとも通じています。いや、それだけじゃないですね。自然と人間、そして国家というくくりで考えると、たいがいの思想書が含まれてしまうわけでしょうから。
 個人、自然、そして国家との対比。
 これもこの本からの連想で感想とは関係ありませんが、以前からソローの「森の生活」を折々に読んでいて、この思想は、ぼくら1980年代の経験者はヘビーデューティー、ヨセミテ、バックパッキング、パタゴニアみたいな文化のバイブルとしてとらえていましたが、それよりもさらに複雑ですね。キリスト教的自然観とは違う新たな自然観の中で人間をとらえてみたい、という発想は16世紀ぐらいからあったのですが、日本の歴史ではほとんど出てこない感覚です。
 人間が神から作られたものである点では自然と同列だけど、人間は自ら文明を作り出し自然と対峙しながら繁殖していきます。同じ神から生まれた存在でありながら、自然は人間のために存在するのだ、と考える。人間の生み出した国家は当然、自然より上に位置するのではないか。本当にそうか?
 日本では、生まれてからの教育課程で「人間であること」をあまり深く考える機会を持ちません。人間に対する「神(創造主)」について考える時間を持つ人が少ないでしょう。少なくとも私は特定の宗教の信者ではないので、それほど深刻に考えたことはありません。
 むしろ、自然の中の生物の一つとしての人間。そこに神の介在はありません。でも、この作品のような小説を読むと、神と人間が対立するなら、自然は神の上なのか下なのか。どちらが支配権を持つのか。
 現代社会では、そこに国家があって、国家と自然、国家と神の関係も出てきてしまい、そっちで対立しているとき、人間個人は、むしろどちらからも阻害されてしまうのではないか。自分が個人としてアクセスしていると思っていた国家や自然が、実はぜんぜん、個人のことなど気にもとめていない。だったら個人として今後はどんな付き合いをすればいいのか、多種多様な考え方が出てくるでしょう。

 この本は、現代人の思う「自然」について、執拗に描こうとしているようです。男女の三角、または四角関係なんて、人間の二つの側面、つまり自然の中で生まれた生物としての個体と、いわゆる「人間らしさ」の部分を示していると思うんですよね(大げさに言えば、ですけど)。

 じゃあ、人間らしさは、自然なのか、それとも反自然なのか。そんなの答えがあるわけないし、知ったところで意味がないようにも思えます。少なくとも現代人の人間性は、自然から生まれたものではなく、国家による教育に左右されて形成されている。ぼくたちは自然の子ではなく、国家の子です。国家が好きとか嫌いとか以前に。
 こうして日本語で文章を書くのは、生まれたところが日本という国家で、そこでは日本語で書くことをメインに教えていたからです。自然が教えてくれたのではありません。
 たとえば、鏡の中の自分は自分ではないけど、その幻影は自然の中に存在していると言えるのか。虚像であり、幻想ですが、自分そっくりです。鏡の中の自分しか見ていない人がもしいたら、その人にとっては、それが現実です。国家が見せているのは、鏡の中の自分なのか? 『最後の物たちの国で』に、そういう感覚があったことを思い出します。

 幻想は自然の中にもある。ということは、自然がつくりだした幻想は、現実なのか。少なくとも、その幻想を見ている人にとっては、現実になるのでは? 国家が見せる幻想と、自然が見せる幻想。人はどちらを信じるのでしょうか。

 このあたりの感じが、この作品を読んでいて、おもしろいのです。

(初出2011年12月18日 かきぶろ、2022/08/04改訂)

『偶然の音楽』(ポール・オースター 著、柴田元幸訳)

偶然の音楽 (新潮文庫) 文庫 – 2001/11/28
ポール オースター (著), Paul Auster (原著), 柴田 元幸 (翻訳)

 この作品は、前作『ムーン・パレス 』よりも、さらに小説らしい小説です。物語性がより大きくなっています。

 原題は「The Music of Chance」。1990年の発表です。

 例によって、出口のなさそうな話が続きます。
 主人公は消防士。消防士というだけで、さまざまなドラマを想起しますが、この本では、それはほとんど廃除されてしまいます。それらしき部分は一行ぐらいしか出てきません。
 そっちのドラマには作者は興味がないのでしょう。

 この消防士。大金を得て、仕事を辞めて、それを使い切るまで、クルマでアメリカ中を走り回るのです。ほかにはなにもしません。
 そして、残り少なくなったとき、若者に出合います。賭けポーカーの名手というのです。そのスポンサーになって、大金持ちのところで、大勝負に出よう、なんて展開になるのです。

 この先、どうなるかは、読んでからのお楽しみ。それぐらい、今回は物語性が、この作品の重要な要素になっています。
 読んでいて、とてもおもしろい。シンプルに楽しめます。また、結末は賛否あろうかと思いますが、もう、そこしかない、というところまで、きちんと順序立てて進んでいきますので、作者は、これまでの作品に比べると、とても丁寧で親切です。

 いつも思うのですが、オースターはその時々の「現代」を描いているのです。しかし、それはなんだか、とても古めかしい世界にも見えます。前作で描かれる荒涼した砂漠もそうですし、この作品では後半の主要な舞台となる大金持ちの敷地もそうです。18世紀のような印象。

 そこ、いっちゃいますかー、という感じがします。でも、そこからが著者らしさでもあったりします。

 原題「The Music of Chance」には、チャンスという言葉が入っています。これを翻訳では「偶然」としました。作品を読んでいると、いわゆる「チャンス」が随所に出てきます。「運命の分かれ道」です。そして、そのチャンスでは、だいたいの結末が見えているにもかかわらず、「そっちか」という方向へ進みます。

 そして、なんだかわからないなりに、「より自由な世界」を求めていたはずなのに、どんどん「より閉塞的な世界」へと突き進んでしまう。なぜなら、私の解釈では、「結末のわかった自由よりも、結末の見えない閉塞世界の方が重要だ」と、主人公は考えているように思えます。
 なぜ、自由はダメなのか。自由を追求してはいけないのか。ハッピーな結末のどこが悪いのか。
 そんなことを考えてしまうのです。

 こうして、オースターは、初期のニューヨーク三部作による奇跡的な世界づくりから発展し、しっかりと計算された18世紀的世界観と20世紀的世界観の融合をはかるようになった、と私は勝手に解釈します。産業革命の前と後。民主主義の前と後。原因と結果。そのどちらにも、基本としてあるのは、「人間の生き方」であり、「その生き方はどうやって決定されるのか」です。これは歴史観、宗教観、あるいは運命論に通じるものなのでしょう。

 でも、この作品だけを取れば、もっと純粋に楽しんでもいい。「なにやってんだ、こいつ」と思いながらも、「そっちかよ」とツッコミを入れたくなるような選択肢を楽しみ、ふと、読者自身も「そっちかよ」と言われるような選択をしてきたような過去がふっと想起され、「まさかね」と読み終えるといいのではないでしょうか。

 こんな結末なのに、なぜかすがすがしい。
 このすがすがしさは、私が映画「カッコーの巣の上で」とか映画「バニシング・ポイント」とかを思い出してしまう世代の人間だからかもしれません。

(初出2011-09-15 かきぶろ)

『ムーン・パレス』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)

ムーン・パレス (新潮文庫) 文庫 – 1997/9/30
ポール・オースター (著), Paul Auster (原著), 柴田 元幸 (翻訳)

 はじけています。
 これまでが、消えていく言葉、消えていく人、消えていくストーリーだったとすれば、この『ムーン・パレス 』は過剰なほどのストーリーが詰め込まれた作品です。もしかすると、一般的な読者では、このあたりがオースターの作品としては読みやすいかもしれません。それでいて、あなどれないのです。

 主人公は、父を知らずに育ち、母も亡くなって伯父に育てられますが、伯父さんはクラリネット奏者で、ツアーというか楽団の旅に出てそのまま亡くなります。主人公は伯父から受け継いだ膨大な本を読みながら、大学へ行きます。やがて資金は底を尽きます。本も読んでは売っていく。とうとう、追い出されて、セントラルパークで生活をするはめに。
 偶然に出逢った女性と旧友に助け出され、しだいに復活をしていくのですが、住み込みで老人の世話をするアルバイトを見つけて採用されます。この老人がとほうもない人物で、やがて主人公を信用して、とんでもない話を口述させます。
 この話もまた、奇妙な話で、画家だった若き日の老人は荒野に旅に出かけてパートナーを失い、ガイドに裏切られ、辿り着いた洞窟で死体を見つけます。それがどうやら悪党一味の隠れ家で、そこで彼は絵を描きまくり、悪党一味を倒して大金を手に入れて……。

 老人は、最初に荒野で自分は死んだものとされて、それでいいとし、妻子に会いに戻ることさえしません。別人になりすますのです。
 死期が迫り、どうやら息子が生存していることを知ります。老人の死後、主人公はその人物に連絡して、会うことになります。

 ところがなんと。その人物は……。

 いや、種明かしをしてしまっても、この本はおもしろく読めるでしょうが、そういうところに興味のある人もいるのですから、あえて人間関係については、深く触れないでおきましょう。

 この本は、ストーリーの多重構造になっており、主人公そのものの話、登場人物が語る話、登場人物が創り出すフィクションとしての話などが、重なっていきます。そこに主人公とその肉親たちの話が重なります。あらゆるところにストーリーが入り込んでいきます。

 しかも、どのストーリーも古典的、普遍的な骨格を持った話です。父と子、愛と別れ、幸運と不運。アメリカ系の小説のテーマとして大きいのが「父と子」、中でも「父殺し」にありますが(映画『スター・ウォーズ』もそうですね)、この本でも随所にそれに沿った話が流れています。

 主人公は、その中で、自らちゃんと主導的にストーリーを動かしているように見えて、実はまったくそうではないようにも見える。思いがけないところで自分の決定が大きな影響を与えるのですが、目の前で繰り広げられていく事態に困惑し、判断を保留します。

 最初の部分で、セントラルパークでの数日が延々と語られます。これだけ大きく膨らんだ話も、最後は、その続きのような話で締めくくられていきます。アメリカ的な部分、同時にコンチネンタルな部分が入り交じっている感覚もあります。

 それでいて、これまでオースターを読んできた人にはわかるように、ここでも、確実なものはなに一つないのだ、ということしかわからず、現れたと思えば消えていき、手元には最終的になにも残らないかもしれない、という予感を読者は持つことでしょう。
 豊饒なストーリーに魅せられた読者にとって、ある意味の「裏切り」も用意されています。これまでオースターの読者であったならむしろ「納得」となってしまう結末です。

 おまけに著者は、「コメディ」として書いたそうなのです。

 コメディは、ほかのジャンルに比べて一つ大きな違いがありまして、それは「偶然」に対する許容度がかなり大きいことです。笑いは偶然によって起こるのですから(偶然に大金が手に入る、偶然に誰かに間違われる、偶然に誰かに会ってはいけない場面で出逢う、道に偶然落ちていたバナナの皮に、偶然足が乗ってすっころぶ、などなど)、偶然性を許容しないとコメディは成立しません。

 ほかの小説(ミステリー、ホラー、SF、恋愛など)では、偶然を最小限にしてくれないと、「御都合主義」と感じ、読者が著者を信用できなくなり興ざめしてしまう傾向があるのに対して、コメディなら、どれだけ偶然が重なっても「おもしろい偶然ならOK」です(コメディではよくこういうとき登場人物は「ま、いいか」としてしまいますが、他のジャンルではそれは許されないことが多いはず)。

 確かに、この作品には偶然がおもしろいように発生し、笑ってしまいます。同時に「あれ、笑っていいのかな」と、戸惑うこともあります。それぐらい、虚構的なストーリーと現実との接点(現実といってもあくまで作品世界の中での現実ですが)が危うい状況にあります。「名作」と言われる古典作品の中に、意外にも喜劇的な場面があったときにも感じるでしょう。映画『フォレスト・ガンプ』的な「なにこれ?」的部分と言えばわかりやすいかも。

 ただし、虚構によるリアリティーへの攻撃、という点でいけば、初期の作品の方がもっと虚構からの攻撃は強かったので、順番に読んできた者には、それほどの違和感はありません。むしろマイルドです。

 面倒な話は置いておいて、老人の話あたりからは、急速に盛り上がりますので、楽しめる作品だと思います。読み終えたあとに、『ドン・キホーテ』とか『白鯨』とか『緋文字』とか『トム・ジョウンズ』、『三銃士』などなど、昔に読んだであろう、「物語文学」が懐かしくなるかもしれません。
 

(初出2011-08-21 かきぶろ、2022/07/28改訂)

『消失―ポール・オースター詩集』(飯野友幸訳)

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『消失―ポール・オースター詩集』(ポール・オースター著、飯野友幸訳)

 詩集です。
 オースターは、小説を書く前に、詩人でした。若い時代、彼は詩人として創作と格闘していたのです。
 私の中学、高校時代(1960年代から70年代)、古典的な詩集を持っている同級生がいたものです。自身でも、それなりに読んだ(カッコつけて)のですが、その後、はしかのようにパッタリと止まり、今日に至っています。別に、詩集が、若者だけのものではないでしょうし、いつでも読んでいいものだと思うのですが、私はその後、ほとんど読んでいません。

 だから、この詩集を論評することはもとより、感想を書くことさえも、躊躇われます。
 著者であるオースター自身、小説を書く以前に、こうした詩を書いていたのです。おそらくですが、それはある意味の「カッコつけ」だったのではないか、と思います。たとえば、なんにもしない、なにかをしたいとも思わないとき、「なにをしているのか」と聞かれて、「詩を書いている」というのは、人をだまくらかし当惑させるのには、まずまずの言葉ではないでしょうか?
 そして、詩を見せると、たいがいの人は、さらに当惑する。

 ただ、オースターは、小説を書いて名声を得たあとに、こうした詩の中から選んで、わざわざ出版しているところです。本書は1988年に出ています。
 愛着があり、詩の世界は小説につながっているに違いないからです。つまり、闇雲な格闘の歴史とでも言えるものです。

 オースターの小説(ここまで読んだ作品)は、ストーリーは稀薄です。ハードボイルドだと思って読んでも、ミステリ小説のような解決はしません。なにがなんだか、よくわからないけど終わってしまいます。
 現代のエンターテインメント小説の条件として、誰かが言っていたのですが、「読者が迷うことなく、著者が思った通りに結末まで導かれて、誰もが誤読しようもない結末を迎える」ように、書かれていなければなりません。「おれは、Aが犯人だと思う」「いや、Bだ」と、読後に議論を巻き起こすタイプも皆無ではありませんが、基本的には、ちゃんと読みさえすれば、間違いなく犯人は正確に明らかになって、その動機なども(たとえ、「ふざけるな」と読者が怒ってしまうような理由だったとしても)明確になっていなくてはならないとされてきました。
「これは、何について書いてあるのか」さえも、読み手によって違う、読み方次第、解釈次第である作品となると、もうエンターテイメントのメインストリームとしての「ストーリー」ではないのです。オースター作品の、ストーリーを稀薄にした部分には、もちろんある種のエンターテイメント性があるものの、メインではありません。

 詩は、「言葉」であり「リズム」です。言葉が、ナマのまま、著者のリズムで飛び込んできます。ストーリーはほとんど不要です。そのときの気持ち、一瞬のひらめき、一瞬の光景などを、言葉で表現したりもします。読む側も、ストーリーは期待していません。解釈も多様性があります。「これは、こう読め」とは言えないのです。

 ナマの言葉を脳が受けて、読み手が脳の中のどこかにそれを、強引に受け渡し、それぞれになにかしら、見えたり、感じたりします。つまり、詩は、読ませられるのではなくて、読み手が、能動的に読まないと、全部、素通りしていってしまう、車窓のようなものでもあるのです。
 この本に限りませんが、「どうもわからん」と思ったとき、音読してみるのもいいでしょう。音読すると、言葉がナマのまま、脳に反射していくように感じられるときがあります。それがイメージや記憶につながります。まったく、関係のないものと結びつくのがおもしろい。

 では、こうした「言葉」や「リズム」は、作家の心に浮かんだものが、ナマのまま記されているのでしょうか。どうもそれも怪しい、いや、ムリだろう、と思うのです。

 なぜなら、言葉は、想起したときと、それが書き記されたあとでは、役割が違ってくるからです。書き記された言葉は、想起したときとは違う役割を発揮します。そのため、言葉は、別の言葉を引きずったり、影響したり、されたりしていき、あげくには、著者の想起したものとは違うものへと勝手に変わってしまう。

 また言葉の持つ音、字面の美醜も影響します。韻を踏んだり、リズムをとったりしますので、ますます、作者の本当の気持ちとは違う要素が入り込みやすくなります。まして、他国の言語を翻訳したときには、なにか、違う要素が含まれても不思議ではありません。それをマイナスに思う人もいるかもしれませんが、そこにはプラスの面も多く、こちらの持っている記憶とつながりやすくなるはずです。

 いったん文字になってしまった制御しがたい言葉について、オースターは人生のある時期、たとえカッコつけにせよ、真摯に取り組んだのでしょう。それは、おそらく、ムダなことだったかもしれません(たまたま、その後の小説がよかったので、ムダだという人はいませんが、それは結果論です)。

 だけど、誰でも、そうしたムダは持っているはずです。本来なら、「すべきではないこと」だったり、「思うだけで、実現はしないこと」だったり。消えていく運命にあるものたちです。
 それを、あとから、そう決めつけるのは簡単ですが、著者が執筆している瞬間には判断できません。
 安易なポジティブシンキングで、「そんなこと気にするな」「忘れてしまえ」「前を向け」では済まないものたちが、確実に存在しているのです。あとで、表面から消したとしても。

 この詩集で私が感じたのは、そういうことです。言葉の役割、機能。表現者の手の届かないところへ行ってしまうものたち(それは神様を信じている人から見れば、人間そのものです)、そして表現されなかったり、消された言葉……。

 消えていくものと残されたものが、オースターの小説にも通じているような気がしますし、それは文字で表現するすべてのものに通じているのでしょう。

※なお、全詩集として「壁の文字―ポール・オースター全詩集」もありますが、かなり高価。ただし英文との対訳になっている点でさらに深く鑑賞したいときはいいかもしれません。

(初出2011-07-20 かきぶろ、2022/07/21改訂)

『最後の物たちの国で』 (ポール・オースター著、柴田 元幸訳)

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『最後の物たちの国で』 (白水Uブックス―海外小説の誘惑) (ポール・オースター著、柴田 元幸訳)

 未来のような過去のような、それでいて、やっぱり20世紀の香りがする作品です。どこが、と問われても困りますが……。端的に「dystopian epistolary novel」(ディストピア書簡小説)と言われる作品です。ディストピアとは、産業革命によって生み出された負の部分が全世界を覆ってさらに拡大していく絶望的な未来社会、ユートピアの真逆の世界です。
 これまでのオースター作品と決定的に違う部分は、語り手が女性であること。そして物語らしい物語になっていることです。訳者のあとがきによると、1970年代に主人公アンナ・ブルームの「声」が作者に聞こえてきて、聞こえたり、消えたりしながら、ニューヨーク三部作を書いている間にも聞こえてきて、聞き書きのように書いた、というのです。
 そのため、基本、アンナの一人語りの手紙形式の作品であり、書き出しは、こうなっています。

「これらは最後の物たちです、と彼女は書いていた。一つまた一つとそれらは消えていき、二度と戻ってきません。私が見た物たち、いまはない物たちのことを、あなたに伝えることはできます。でももうその時間もなさそうです」

 このあとも「と彼女の手紙は続いていた」、「と彼女は書いていた」、「と彼女は続けて書いていた」という表現がしばらくはありますが、やがて消えてしまいます。溶け込んでいきます。

 ダーク・ファンタジーとして捉えることもできます。舞台は20世紀なら、たいがいの時代にあてはまりそうですが、IT革命以前がふさわしいでしょう。この作品には、ほとんどITの影は落ちていませんし、グローバリゼーションの影もありません。第二次大戦をはさんでの、明確な国境があり、確固とした国の独自性があり、政府と民衆の関係があり、文明と人類の関係があります。このうちのいくつかは、当然、いまの時代でも普通に、私たちの価値観の中にありますが、それでも、変わってしまっていると感じます。少なくともこの物語に比べれば、いまはもうメインではなくなっています。
 もちろん、こうした文学作品は、時代性に沿う必要はなく、理不尽で、無秩序で、政府とは関係なく人々は困窮し、日々の生活に奔走し、生きているだけでも大変な世界は、どんな時代にも常にあるわけです。

 人を探す、人が消える──。これはオースターの一連の世界であり、この作品でもベースになっています。音信不通になった兄ウィリアムを探しに、この国にやってきたアンナですが、たちまち生きていくことの困難に直面し、しだいに生き延びることがテーマとなっていきます。前半では、この国で生活する困難さが細かく表現されます。
 そこで出逢う人々。彼女は最愛の人物を見つけ、生活をともにし、この国を脱出する準備を進めます。ですが、彼女の靴はもはや用をなさず、靴欲しさから騙されて重症を負い、奇跡的に人助けをしているウォーバン・ハウスに収容されます。そして夫のいた図書館は焼け落ち、行方もわからなくなるのです。
 再会はさらに厳しい状況で、ウォーバン・ハウスは崩壊し、国からの脱出を図らなくてはならなくなります。本書は、そこで終わります。
 絶望的な状況の世界。そこで這い回るようにして生き抜く人々。困窮の中で必死に人生をまっとうしようとしている人々。こうした物語の中では、絶望的なエンディングでさえも、希望があるように読めてしまう。読み手としては、「きっと、よりよい結末となるはずだ」という思い込みがあるので、こんな最悪な終わり方でさえも、希望があるように受け止められます。

 こうして書いてきておわかりのように、この物語。確かに世界観、価値観は20世紀らしさに満ちていますが、21世紀にも通用しています。
 物理的な法則として、あらゆるものが、壊れ、崩れ、元に戻ることはない点は、この世の中の根本的な原理だとすれば、どれだけ夢を見て、ポジティブに考えて、楽しいお話を創作しても、それでさえも、消えていくのが自然でしょう。
 物語そのものが、それにあらがうことはできないのです。

 あえてわかりにくいタイトルに見えますが、英語では、「In the Country of Last Things」です。last thingには、英語では「最新の」という意味もありますし、使い方では「してはいけないこと」ともとれます。さらに「寝るまえに最後にすること」という意味もあるので、それはきっと、「物語」に関連していますよね(子どもが寝る前に、親にお話を読んでもらう、というイメージ)。

 ものごとには、複数の意味が重なっているわけですから、この小説も、いろいろな受け止め方ができると思います。その意味で、おそらく、読むたびに、違う発見、あるいは解釈を読み手が生み出す余地があるでしょう。
 それほど、長い物語ではありませんが、書簡による一人称なのでこのぐらいが限界かな、というサイズではあります。一人称は、読む側は最初、その視点に固定できて入りやすいのですが、この視点がネックとなってしだいに窮屈になっていき、息苦しくなっていくものです。長い物語は三人称のほうが読みやすいかもしれませんが、あえて、まるで海岸に打ち寄さられた空き瓶に入っていた手紙のように、または世の中に広くある日記文学と同じように、一人称でぐいぐい押してきます。その迫力に最後まで読んでしまうしかないのです。

 とても、楽しめました。同時に、いま、自分たちがいるこの国、この世界について、考えてしまうのも事実でした。

―――以下、内容をこれ以上知りたくない、最後のシーンを知りたくない方はお読みにならないように

 メモしておきたかった言葉。1994年11月の初版を使用しています。

「何だかんだ言ったって、たとえこんなひどい時代だって、人生ってのはいくらでも素晴らしくなれるんだ。それをわざわざ台なしにしちまうことしか考えない人間がいるなんてねえ。ほんとに情けないよ」(P84)
 この言葉は、アンナの助けた老女イザベルが、夫ファーディナンドを殺した翌朝の会話から。アンナは自分が殺しかけてやめたと思っている。だが、ファーディナンドは死んでいた。

「仕事なんかやめて、自分の体を大切にすべきよ」
「やめられないんだよ。本があるからこそ僕はやって行けるんだ。本のおかげで自分のことも考えずに済む、自分の人生に呑み込まれなくて済む。もしこの仕事をやめてしまったら、僕はもうおしまいだろうよ。一日だって持たないと思う」(P125)
 兄ウィリアムを追って先に追跡に出たサムと出会ったアンナ。サムは図書館に部屋を持ち、原稿を書いていた。それが終われば国を脱出する考えだった。そのサムとの会話。

「いままで持っていた物を失ってはじめて、私たちはその物の存在に気づきます。そしてそれをふたたび取り戻すやいなや、またしてもその存在を気に留めなくなってしまうのです。」(P168)
 ウォーバン・ハウスに助けられ、そこで働くようになったアンナ。毎日たくさんの人がここに助けを求めにやってくるが、失望する人も多いことについて。

※以下はエンディングからなのでご注意ください。

「いまこの時点で私が望むのは、とにかくもう一日生き延びるチャンス、それだけです。あなたの古き友人アンナ・ブルーム、別の世界からの便りでした。私たちが行こうとしているところまで行きついたら、もう一度手紙を書くようにします。約束します」(P122)

(初出2011-06-25 かきぶろ、2022/07/21改訂)

『孤独の発明』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 オースターの「三部作」の『鍵のかかった部屋』の前に、柴田氏解説などでどうも気になるので、「三部作」以前に発表された作品を先に読んでおきたくなりました。それがこの『孤独の発明』です。『ガラスの街』のあとにすぐ読み始めたのですが、本書はまったく系統が違うので、ちょっと時間がかかってしまい、その間に『幽霊たち』を先に読み終えてしまいました。
 ですが、さすがに踏みとどまって、なんとか『鍵のかかった部屋』よりは前に読了。読み応えのある一冊でした。

『ガラスの街 』『幽霊たち』 は、そぎ落とされた作品、というイメージがあります。ムダがない。ピーンと緊張感が張り詰めたまま最後まで進む。読み物としても、シュールレアリスム絵画のような不条理な作品としても楽しめます。

 ですが、『孤独の発明』は、テンションこそ最初から最後まで高く保たれていますが、どちらかといえばリアリズムの作品、私小説に近い。そこで使われる言葉の数、持ち出されてくる題材も豊富です。

 全体が「見えない人間の肖像」、そして「記憶の書」の2つの章に分かれています。

「見えない人間の肖像」は、私小説といっていいものです。著者の父親の死。父の死とともに、父という人間の生涯がこの世から消えていってしまうことに気付き、「父が何の足跡も残していなかったということ、その事実が私を愕然とさせたのだ」(P11)と、「非在の人間」、いつもそこにいない存在だった父親について書き残そうとします。
 さまざまな記憶を寄せ集め、父親の幼い頃に起きた家族内の事件にまで遡っていきます。ミステリーではないので誤解なきように。悲劇的な事件でしたが、この作品のメインのストーリーではありません。
 人間が生まれて生きて死ぬ。その存在を言葉で記録することはできるのか。「見えない人間の肖像」というタイトルにあるように、見えないものを残すための文字、文学について考えさせられます。

 私たちは気軽にストーリーとしての文字情報を消費しています。起承転結のある一連の作品を読むことで、驚いたり、感動できます。ですが、文字による表現はそれだけにとどまりません。
 どうにもつかみどころのなかった父親を失ったときに、文字を使う仕事をしていた子どもは、文字で失われていく父を引き留めようとしています。そして、かなり成功しているようにも見えます。
 ただ、エンターテイメントとして、大衆が消費するようなタイプのストーリーとしては提示されません。

 第2章としての「記憶の書」は、「見えない人間の肖像」でぶつかった疑問をさらに深く考えていきます。
 もはや、これは小説というよりも、探究の書となっていきます。私たちは、なにを語るのか。物語を語ることでなにを残せるのか。ここでもまた、ストーリーとしては提示されません。あるとすれば、「ストーリーはなにをもたらすのか」を考えている著者、そして著者は「見えない人間の肖像」を残そうとした人物、という意味でのストーリーでしょうか。でもまあ、私たちは文学を楽しむとき、ストーリーだけを消費しているわけではありませんから、ストーリーがなくても、構わないのです。豊潤な小宇宙を、うろうろと、そう、街を歩く探偵のように、私たちは著者の横で、うろつくのです。

 ロシアの詩人、マリーナ・ツヴェターエヴァ、画家レンブラント、ドイツの詩人・思想家、フリードリヒ・ヘルダーリン、画家フェルメール、『ピノキオ』と旧約聖書の『ヨナの書』、画家ゴッホ、トルストイ、フロイト、ドストエフスキー、『千一夜物語』、アンネ・フランク、プルースト、ライプニッツ、ロシアの作家、ナジェージダ・マンデリシタームといった多彩な「孤独」を考察しながら、「書く」ということそのものを深めていく作業に、私たちも同席するわけです。
「あったこと。二度とないこと」への追悼とも解釈できますが、もっと積極的に、「なにかを語る」「なにかを残す」ことと、人間の生きることをピッタリとくっつけようとしているともとれます。日常と非日常をくっつけようとしているともとれます。

 切実な目的(生きながらえる)ために、ストーリーを毎晩、語り続けたあの有名な話のように。

「三部作」のテイストとはまったく違う本ならがも、楽しみ方は、いかようにも広げていくことが可能な作品です。誰もが読んで楽しめる、とまでは言い切れませんが、読んだ人はなにかしら大きなものを得られるだろう作品です。

……

 以下は、私が気になったところ。

「無謀な未来、いまだ起きていない出来事の神秘。そういったものもまた記憶に定着しうることを彼は学んだ」(P207)

「一人の男が独りきりで部屋に座り、書く。その本が孤独について語っていようが他人とのふれ合いについて語っていようが、それは必然的に孤独の産物なのだ」(P223)
 

(初出2011-05-28 かきぶろ、2022/07/14改訂)

『鍵のかかった部屋』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)


『鍵のかかった部屋』 (白水Uブックス―海外小説の誘惑) (ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 いわゆる「3部作」と呼ばれる『ガラスの街』(シティ・オヴ・グラス)、『幽霊たち』 、そして本書。
 いずれも、同じことを違う角度で表現している、とも言える作品とも言えますね。また、本書には、前の2作についての言及、そしてクィンという探偵についても言及されていますので、トータルで1つの作品と考えてもいいかもしれません。
 もちろん、別々に、バラバラに読んでもまったく構いません。私としては、『ガラスの街 』が一番、楽しめたかもしれません。ミステリー、ハードボイルド系をよくお読みの方なら、その雰囲気、テイストはわかっていただけるでしょう。
 それに比べると、『鍵のかかった部屋』 は、どちらかといえば、『孤独の発明』につながっている雰囲気があります。『ガラスの街 』を『孤独の発明』的な手法と融合させてみた、といった感じでしょうか。

 小説の中というのは、書き手がいて、書かれている別人の話がある、という関係です。いくら書き手が、自分自身のことを書いても、読み手は、本の中に出てくる人物としてとらえるので、書き手とイコールにはなりません。それを、書き手自身が、書きながら意識して、そのままストーリーとして展開している、と考えることもできます。
『鍵のかかった部屋』 は、主人公の語り手の友人として、幼なじみのファンショーが登場します。登場はしますが、それはあくまで語り手から語られたり、当人からの手紙、当人の残した作品、語り手が出逢う人から語られます。最後に当人らしき人物が出てきますが、それもドアの向こうにいて姿を見せず、声だけなのです。

 そして読者として、これまでの作品を読んでいればわかりますが、このファンショーの経歴は、著者の経歴にほとんど重なっています。船員になり、パリに住み、映画プロデューサーの仕事をしたり、翻訳をしたり。
 突然、彼は行方不明になり、語り手は妻子と未発表の小説や戯曲の原稿を託されます。そして、それを出版し、評判を呼び、語り手は友人の妻と結婚します。友人は死んだこととされます。でも、語り手は友人が生きていることを知っています。
 やがてファンショーの伝記を書くことになり、ファンショー探しが始まります。
 一方がいなくなり、一方が探す。または、一方を追いかける。またはそれはどこかで、一緒になってしまう、というのがこの3部作の基本のようです。

 読む楽しみは3作の中では低いかもしれませんが、前の2作を読んだのなら、ぜひお勧めします。鏡でできた迷路のように、この作品の中でさまよう楽しみは、ほかではちょっと味わうことができないでしょう。

――以下、気になるところなどのメモです――

「書くことは長いあいだ僕を苦しめつづけた病いだった。もう僕はその病いから回復したのだ」(P79)

「スピノザから引いた一節を書いた紙を、僕は壁に貼りつけた。『自分は書きたくないのだと人が夢想するとき、自分は書きたいのだと夢想する力を人は持たない。そして、自分は書きたいのだと夢想するとき、自分は書きたくないのだと夢想する力を人は持たない』」(P90、91)

「彼はもう、他人から自由であるばかりか、自分自身からも自由なのだ」(P142)

「僕はもう、アメリカでやっていたように体裁を取りつくろう必要はない。ソフィーをだますために時間つぶしの仕事をあれこれでっち上げる必要なんかないのだ。お芝居は終わった」(P172)

「ファンショーはいなくなった。そして彼とともに、僕もいなくなったのだ」(P182)

 このあと、「この本の前に出た二冊の本」について言及されて、この本を加えて「三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ」としている。

注 私が読んだバージョンは、現在発売されている新書版ではなく、1997年刊行の「新装版」です。

(初出2011-06-09 かきぶろ、2022/07/14改訂)

『幽霊たち』 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)

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『幽霊たち』 (新潮文庫)(ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 オースターの2冊目。先に読んだ『ガラスの街』と、このあと読む『鍵のかかった部屋』でニューヨーク三部作とされているそうなのですが、実は並行して『孤独の発明』も読んでいます。ただこっちは少々、時間がかかっているので、合間に読んだ『幽霊たち』が先に読めてしまって。
 戯曲が元になっているそうで、日本でも上演されているんですね。とても薄い本。翻訳者のほか2本も解説がついて、やっと144ページ。
 中身は、『ガラスの街』と通じる世界で、探偵小説風ですが、ミステリーの要素もタップリあるのに、どんどん異次元へと行ってしまう、というやつ。
 手掛かりとして、ソローの『ウォルデン』(森の生活)。そして映画がいくつか。「湖中の女」「堕ちた天使」「潜行者」「背信の王座」「ピンクの馬に乗れ」「デスパレート」(P52)。特に「過去を逃れて」というロバート・ミッチャム主演の映画について詳しく触れています。
 さらにホーソーンの小説。ウェイクフィールドという男の話。これはズバリ『ウェイクフィールド』という短編のこと。1835年の作品。それがその後、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが絶賛したとかで1980年代から再評価され、オースターも影響を受けただけでなく、エドゥアルド・ベルティによって『ウェイクフィールドの妻』が書かれて、その2編を一緒にした本が新潮社から2004年に出ていたんですが、これはいま、手に入りにくいみたい。

 ストーリーの構造が、依頼され、孤独な探偵が仕事につき、懐疑的になり、対象の人物に接触し、余計になにがなんだかわからなくなり、最後は都市(ニューヨークですね)の中に、溶け込んでいってしまう、といった感じ。ある点で、『ガラスの街』とほぼ同じといっていいでしょう。

 読者は謎また謎に遭遇するのですが、一番の謎は、この主人公がいったい、どういう考えでこんなことをしているのか、というところでしょうし、「そっちへ行くか」とはぐらかされる楽しみもありますが、解決はありません。

 だけど、もしかするとミステリーの読者の中には、解決そのものを望んでいない場合もあるのではないか。その過程での楽しみが主になっていて、犯人なんてどうでもいいんじゃないの、となっているときがないか。犯人がわかって、合理的な解決があってもなお、「ホントにそうなの」と思ってしまうこともあるのではないか。または、その合理的な解決が一番つまらない、と思えることはないか。
 そんなことを、考えてしまうのです。

 そうそう、登場人物を色(ブルー、ブラック、ホワイトなど)で名付けているところは、当然、タランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」を連想させます。そのことを書いている人も実際に見つけました。俳優のハーヴェイ・カイテルがこの映画のメジャー制作の後押しをしたことは知られていますが、それはタランティーノ監督の自主制作版を見たからで、これではすでに監督自らホワイト役をやっていたので、もしオースターの影響があるとすれば、かなり前ということになりそう。ちなみに、「レザボア・ドッグス」ではミスター・ホワイト、といったようにMr.がついていますが、オースターにはそれさえもなくて、ただ「ホワイト」です(原文もそのようです)。a private eye named Blue is hired by White to follow and report on Black. とアマゾンの紹介にあります。それに、この映画はバイオレンス満載の裏切り者探しが主ですので、話そのものが似ても似つかないものですけど。

(後日追記 この人名の謎については、3部作の3作目『鍵のかかった部屋』に書かれていました。なんと、国勢調査員のバイトをしているときに、調査しても人々に迷惑がられ、予定の件数をこなせないことなどから、人物の捏造をしていた、という話があって、そこでさまざまな名前を創り出すことに触れていました)

(初出2011-05-12 かきぶろ、2022/07/04改訂)

『ガラスの街』(ポール・オースター著、柴田元幸訳)

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ガラスの街 (ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 オースターの「シティ・オヴ・グラス」は角川文庫から出ていますが、今回は、新潮社の単行本、柴田氏による翻訳版を読みました。これは文庫になっています。

 ミステリー小説というジャンル、またはハード・ボイルド小説というジャンルに近いスタイルですが、そのどちらからもはみだしている「現代小説」とでも言うしかない作品です。
 それでいて、ミステリーファンや、ハード・ボイルドファンも、きっとある意味で楽しめるのではないか、と思います。私は大いに楽しみ、夢中になりました。

 いろいろな要素が詰まっている話ですが、大きな筋としては、バベルの塔、そしてドンキホーテでしょうか。
 また、都市と人間の関係性を考察しているともとれる話かもしれません。いくらでも深読みできます。

 そして、ストーリーは、謎が謎を呼ぶだけではなく、何一つ、確かなものがない中で、主人公は都市の迷宮へとはまりこんでいきます。この点で、幻想的な小説ととらえることもできます。
 ただし、先に村上春樹などを読んでいる読者だったら、まったく違和感なく楽しめるのではないでしょうか。

 この小説は、シェフが極上の素材を厳選して、なおかつ、繊細な技法で作り上げた宝石のような料理を思わせます。口に入れたとたん、淡雪のように溶けて、どこかへ消えてしまうような、それでいて濃厚な香りと味わいを、人の記憶に刻み込ませるような、そんな料理にも似ています。

 不安定な話が最初から最後まで続きますが、読者はとても安心して、それを楽しめるようにつくられていますので、気分が悪くようなことはないはずです。
 そして、構造そのものが、堂々巡りというか、いつの間にかスタート地点に戻っているというか、メビウスの輪のようになっているわけです。
 すっごく歩き回ったのに、実はまったく進んでいませんでした、みたいな。
 または、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のエンディングみたいな。
(初出2011-05-03 かきぶろ、2022/07/04改訂)

オースター書籍リスト

(2022/11/20)

     

 

 

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本間 舜久

投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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