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『異邦人』 (新潮文庫)
(カミュ著、窪田啓作訳)

薄くても難しいものは難しい

 何年ぶりだろう。読んでみた。
 というのも、『調書』(J・M・G・ル・クレジオ著、豊崎光一訳)を最近読んで、どうしてもイメージが「異邦人」にかぶっているというか、その後しきりと「『異邦人』を読んで確かめてみては」と囁く声が聞こえていたのだ(実際には聞こえていないけど)。冒頭の「きょう、ママンが死んだ。」があまりにも有名だ。

 原著は1942年に刊行されたから、クレジオの『調書』の1963年から20年も前。クレジオは23歳のときに刊行している。カミュは29歳のとき。

 クレジオの『調書』は、著者が生まれたニースなど南仏の明るい光を浴びているイメージがあり、カミュの『異邦人』はアルジェのやはり強い太陽の下というイメージ。地中海をはさんで北と南。同じように恵まれた陽光がある。それは、まったく違うものの、映画『太陽がいっぱい』のイメージでもある。「太陽が眩しかったから」も本書の有名すぎる言葉である。

 前に読んだのが10代の頃だったはずなので、当時とはまるで見方が変わってしまっている気がした。「異邦人」は「読むべき本」の中でも薄い方だったので、当時は「仕方がなく読むなら薄いのがいい」と、薄い本ばかり読んでいた(老人と海、車輪の下、斜陽、鼻などなど)。ところが、この薄いというのはクセ者で、薄くても難しいものは難しい。当時の私には、「異邦人」は難しい方だった。なにしろ、まだ映画『太陽がいっぱい』も見ていないし(見たかな? でも結びつけてはいない)。「不条理」ばかりを先入観で持っていたのがいけなかったのだろう。つまり「これはすばらしい文学作品で不条理を描いていて哲学的で……」という感じ。

それほど不条理だとは感じなかった

 ところが、今回読み直してみて、それほど不条理だとは感じなかったことが、驚きだった。
 不条理に慣れてしまったのかもしれない。

 とてもリアリティがあり、この主人公はいまの時代にも生きていると感じた。古い人間というよりも、いま中学生だ、と言われても驚かない。
 母の死から事件までの1部、逮捕後の裁判を描く2部という構成からも、ミステリーとして事件編、謎解き編となっているとも取れる。もっとも、謎解きが不条理なので、謎のまま終わる。
 とはいえ、この謎は、現代の私たちにはむしろよくわかる。

 解釈はいろいろできるだろうが、シリアルキラーとかサイコパスの犯行が現実に起きていることを、私たちは知っている。動機が不明な殺人で驚くかと問われれば、まったく驚かない。
 この主人公ムルソーのように、夢も目的も、そして生きている実感もなく生きている人は、いまの時代には私たちのすぐ隣にいてもおかしくはない。

 一方、ムルソーはそれとは真逆な人間かもしれない。

心のない人とみられることと、実際に心がない人

 たとえば、ステレオタイプな共感を否定したときに、その人は心がない人間と思われる可能性はどうだろう。
 食事のときに、グルメ番組のように「うわ、これ、すごくおいしい」などと言わなければならないのだろうか。黙々と食べたら、「あの人はせっかくの料理なのに、おいしいとも言わず、心が冷たい人だ」となるのだろうか。ただ、静かに真剣に食事がしたいだけなのに?

──検事は、あの男の魂をのぞき込んで見たが、陪審員諸君、何も見つからなかった、といった。実際、あの男には魂というものは一かけらもない、人間らしいものは何一つない、(以下略、P128)──

 心のない人とみられることと、実際に心がない人とは、外見から区別することはとても難しい。もしかすると、唯一の理解者である母親を失ったときに、ムルソーは現実の世界と生身で向き合うことの息苦しさを感じて、押し潰されそうになっていたかもしれない。
 それは、マリイに対して、付き合っているという事実がありながらも、結婚の対象ではないとはっきり言ってしまうような行動にも表れている。ただ、マリイは母親ではない。彼女に彼を理解できたのかどうか。作品では触れていない。
 2部で面会にマリイが来るシーンはあるものの、ちゃんと向き合うこともできない。上の空なのだ。彼の注意は近くにいた青年と老婆など他に移ってしまう。さらに、もはや過去を思い出す楽しみを見出して、将来のこと(自由になって彼女と結婚するとか)は考えられなくなっている。

 もしかすると、自分の心は自分だけのものであり、それを大事にしっかり持つことは、他人に触らせないことだと思っているのだろうか。

 最後の司祭とのある意味の「対決」は、本書の特徴である最初から父親の存在の欠如した主人公にとっては、変形した父との会話と考えることもできる。父を心の底から求めていたはずだが(少年の多くはそうだろう)、彼はそれをしていない。父親的なものを完全に否定して生きてきたのかもしれない(だから結婚も考えられない。結婚したら自分が父親になってしまうかもしれないのだから)……。

 などなど、いろいろ得るものは多かった。

クリュシエンの塩

 P28に出てくる、「クリュシエンの塩の広告を切り抜き」という文。クリュシエンの塩の広告とはいったいなにか。わからない。なんとかネットで検索したところ、Kruschen Salts ということがわかった。kruschen salts advertisements で画像検索をすると、たくさんの「切り抜き」が出てくる。

 こんな記事にも出くわした。Meursault(主人公ムルソーだ)は、どうして塩の広告を切り抜くのだろうか。

 どうやら、クリュシエンの塩は、下剤として健康維持のために役立つと広告でうたっていたらしい。どのぐらいの価値があるかは、私にはまったくわからないが、確かに、「異邦人」はブラックユーモアの作品だととらえることも可能だろう。

 ムルソーは、Meursaultと綴るらしい。カミュはフランス人。Meurとsaultで分解すると、Meurは「死ぬ」。saultは「暴行」とGoogle翻訳で出てくる。そしてsaultはsaltsに通じるのではないか?(発音はまったく違うけども、綴りから連想はできるかな)。

 少なくとも、もし最初から、「この本はひねくれた笑いの本だよ」と言われたら、読み方はまったく変わってしまう。

 とくに、老人と犬のエピソードは、哀惜漂うわびしい話ではなく、スラップスティックなお笑いと捉えることも不可能ではないかもしれない。犬はついに逃げたのだ。愛情をしっかり表現できない老人を捨てて……。

 そしてこの関係性は、ムルソーとマリイの将来を暗示しているとも言える。もし結婚でもしようものなら、そして父親にでもなろうものなら、ムルソーは……。そして彼が大切にしている心は……。

 また、これは私の完全な記憶違いがあったことも発見できた。有名な「太陽のせい」という部分。これは、独立したセリフではなかった。地の文として表現されている。

──(略)自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。(P131)──

 太陽のせいで人を殺した男。ナンセンスだと笑えないのが、いまを生きている私たちの実感だろう。

 いろいろと刺激のある作品であることは間違いない。なお、ルキノ・ヴィスコンティがマルチェロ・マストロヤンニ、アンナ・カリーナで原作に忠実に映画化しているらしいが、未見。どうやらYouTubeで見ることができそうなのだが……。製作はディノ・デ・ラウレンティスで、名作から快作まで幅広い映画をプロデュースしてきた人(たとえば「オルカ」「フラッシュ・ゴードン」「デッド・ゾーン」「デューン」「ハンニバル」とか)。
 いつか、見てみたい。

(かきぶろ2017年4月28日、2021年3月25日加筆修正)

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本間 舜久

投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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