『充たされざる者』(カズオ・イシグロ著、古賀林幸訳)

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『充たされざる者』(カズオ・イシグロ著、古賀林幸訳)
948ページもある膨大な作品
『The Unconsoled(1995年)の邦訳。4作目の長編。
1993年には『日の名残り』の映画が公開されていますので、前作の余韻が長く世間に続いている中で登場したこの『充たされざる者』。これがまた、これまでの作品とはまるで違うだけではなく、早川文庫版で948ページもある膨大な作品だったのです。当時、これがどのように受け止められたのかわかりませんが、私自身、2017年7月に読んでいたものの、整理がつかず紹介がずっと遅れてしまったのです。著者がノーベル文学賞を受賞したと知り、ますます焦りました。
これまでの作品も一筋縄ではいかない点では、共通しています。これは手強い。長い。電子書籍で読んでいて、いつまでたっても半分に到達しない。話はまったく進展していないように見える。主人公たちはいったいなにをやっているのだろう。書かれていることは正確でリアルっぽいのに、私たちにはさっぱりわからない……。
主人公「わたし」による一人称です。ライダーと呼ばれる主人公がピアノを弾きに訪れた街。ホテルのフロントマンがブロツキーという人物について語ります。この作品では、主人公とブロツキーという2人の音楽家が軸になっているのですが、直接関わるのはずっとあとのことです。老ポーターとの延々と続く会話。ここで挫折する人も出るんじゃないかと思うほど、私たちを混沌の中に突き落とします。
このポーターのグスタフも重要な人物ですが、そもそも、出て来る人たちと主人公の関係がどの程度深いものなのかは、まったく説明がないので会話や事件を通してでなければ読者はわかりません。
まるで悪夢のような世界なのか。それともメルヘンチックな世界なのか。
読み終わったとき、とても疲れますが、この作品を読まなければ経験できないことを経験させてもらったと感じました。これはすごいことです。このような読者体験のできる作品はそれほど多くはないでしょう。
ただ、この作品の構造をあらためて意識しながら読んでいくとき、私はいろいろな発見をし、さらに楽しめたのでした。それは「現在」と「過去」を巡る冒険といってもいいものなのです。
さらに、村上春樹作品に登場する「いるかホテル」との関係を考えてみるのも、おもしろいかもしれません(←2022/05/14追記)
この本の構造を見てみましょう。
Ⅰ 1~10
Ⅱ 11~20
Ⅲ 21~27
Ⅳ 28~38
長い作品でありながら、4幕の芝居として考えることもできます。
レビュー1 未知の世界への冒険を楽しむ
この作品を2度目に読むとき(斜め読みでもいいのです)、まるで旅の記録を振り返るような、不思議な親近感に自分でも驚きます。読んでいる間は「こりゃダメだ」とか「もうムリ」とか「これ以上読んでも意味がないんじゃないか」と自問自答していたというのに……。
読み始めてしばらくして、自分(読者)は悪夢のようなこの作品に反発したり魅了されたり、心が乱れることになります。
つまり、この作品は、長編小説によくあるように、一緒に過ごす時間としての愉悦があります。それは読み終わってみないとわからない点も、古典的な長編小説と同じです。例えばトルストイのような。
読んだ者にとっては、細部に触れることはすべてネタバレになりそうな気がしてしまいます。著者が仕掛けたこの構造(または状況)を語ることは、これから読もうとする者にとっては余計な情報になってしまうのではないかと恐れるのです。
それは、親切すぎる旅のガイドブックと同じではないか。ガイドブックが正しいことを確認に行くような旅はつまらないものです。だからといって、未知の世界になにも持たずに飛び込むことは、日常ではまずできません。
そんな冒険が読書では可能なのです。この作品の最大のおもしろさは、まさに「なにも持たずに飛び込んで、体験すること」に尽きるのです。
900ページを超えるこの作品を振り返るときの楽しみとは「ああ、こんなこともあったな」とか「ここを通ったときは、とんでもないと思ったけど、いま振り返るとなかなかおもしろいぞ」といった、読み手の変化にあるのです。
つまり冒頭のみ読んであきらめた場合、途中で放り投げた場合には得られない楽しみが読み終えて、振り返るときに読者に起こるはず。
これこそが小説のある楽しみであることを、改めて知ることになるのです。
正直、『忘れられた巨人』を衝動買いして読み感銘を受けた私は、著者の長編を発表順に読もうと考えてました。「早く映画やドラマになった作品を読みたい」(『わたしを離さないで』のことです)などと思いながら、この壁を越えなければ、という気持ちも強く、実はちょっぴり歯を食いしばって、しがみついて読みました。
壁は乗り越えるときに苦労するけど、上に立ったとき、これまでの世界(過去)とこれからの世界(未来)を同時に見通す一瞬がありますよね。
この作品は、そんな気持ちを思い出させてくれました。貴重な体験だったと思います。はじめてこの本を読む方には、ぜひそんな体験にしていただければと思います。
レビュー2 ネタバレ的に言えば……
とはいえ、実際には読まない人もいるでしょうし、すでにお読みになった人もいるでしょうから、内容に触れたレビューも書きます。ネタバレ的なレビューですし、私の一方的な思い込みでもあります。
興を削ぐことになるので、未読の人はこの先は読まないほうがいいのでは、と思います。
私の思い込みによってこのレビューは書かれていることもお忘れなく。そもそも客観的ではいられない作品です(もっともほとんどの小説は客観的な評価はムリであるが)。同じツアーに参加にしても、旅はみな旅人各人のものです。それと同じです。
では、はじめましょう。
この本の構造(ネタバレ的)
Ⅰ
1~10
到着からホテルに。主人公がライダーと呼ばれ、ブロツキーの名が出て、老ポーターのグスタフと会う。グスタフからゾフィーのことを、ホテルのフロントのホフマンからも、さらにシュテファンとも出会う。頼まれ事がどんどん増えていく。果たして、主人公はシュテファンの演奏を聴いてあげるのだろうか。
問題を抱えている町。その問題とは? ボリスが執着している九番とは。
Ⅱ
11~20
寝ようとして数分でホフマンに起こされる。朝食をボリスと。だが記者のインタビューに対応してしまう。写真を撮る場所まで遠くへと連れ出されて……。ボリスと前のアパートへ行くのか? 幼い頃の記憶が蘇ってくるのだが……。ミス・コリンズの存在が大きく感じられる。
Ⅲ
21~27
目覚めるところからはじまる。朝食をとろうとしたが、用意ができていない。今夜のコンサートのために出払っているのだ。ミス・コリンズを訪ねようとするが、場所がわからない。ミス・コリンズとの会話。ミス・コリンズとブロツキーの関係。ピアノの練習。グスタフの騒動。
Ⅳ
28~38
目が覚めるところからはじまる。今夜のコンサートなのに寝過ごしたかもしれないと慌てる主人公。ホフマン夫人との老いに関する会話。ゾフィーのと会話。ブロツキーの苦難。そしてコンサート。
最後には朝食の話。両親の話。そして自分のことで終わります。
著者へのインタビュー番組などでしばしば登場するプルーストの『失われた時を求めて』。この作品を読み始めて、いよいよ著者はプルーストの試みを著者なりに発展させようとしたのではないかと感じてしまうのです。
私は幸いにもプルーストを少ししか読んでいない(諦めた)。それで比較するのは無謀だけど、どうやら、プルーストは「いま」起きたこと(それが食べ物の香りだったりする)に想起されて過去の記憶に飛び、「いま」と「過去(記憶)」は時空を超えてつながっている作品となっているらしい。
少なくとも私たちは多かれ少なかれ(意識するかどうか別として)、そのような生き方をしているので、むしろ現在と過去が同時並行で意識されている状態こそが「リアル」とも言えるのです(読む側は混乱しますけど)。
そしてこの『充たされざる者』は、それを発展させているのではないでしょうか。
この作品は一人称で描かれます。ライダーというピアニストであり、著名であり、解決力のある人物でその発言を誰もが注目しているらしい人物です。
とはいえ、それは一人称なので、当人が言っていることでなので、本当のところはわかりません。
彼は、現実に起きたことと記憶の中にある過去が、激しく相互に作用する人物なのです。
過去を通してしか現実を見ることができない。それでいて、現実に刺激されてその過去は変化してしまいます。
この作品では都合よく主人公の過去を知っている人物や物や出来事に出会います。もしかしたらそれは完全に彼の思い込みであって、現実に会う人たちを過去の誰かに置き換えているだけなのかもしれませんよね。
たとえば、突然、主人公は廃車に出会います。
──引用──
わたしにはこの車が、かつて父が何年も乗っていたわが家の愛車の残骸だと分かった。
──引用終わり──
そして、「この車の最後の日々のことを思い出した。」と言うのです。
こうしたことが、この作品ではたびたびあるのです。もちろん、この町には彼が暮らしたアパートもあるのですから、父の愛車の残骸があってもいい。ですが、そもそもこの旅の途中に寄った町の懐かしさを描くなら、冒頭でそうした話があってもいい。それがほとんどない。
つまり、現実を過去に置き換え、過去を書き換え続けているのかもしれません。それは上書きして保存しているときもあれば、完全に消去して書き換えている場合もあるのでは?
そのため、記憶はしばしば齟齬を来すのです。不都合が起きてしまう。すると主人公は怒ります。何ヵ所か、とても怒る。読者としてはそこで怒るのなら、もっと前の時点で怒るべきだろうと思って読んでいるわけです。主人公が怒る場面、それはもしかすると、自分の信じている記憶に危機が訪れたときではないでしょうか。
結末で明らかになるように、主人公は起きたことが「過去」になるとき、すべてを美しく楽しい記憶としてしまい込むのです。それが、最後の最後に明かされる。彼はまた旅に出ます。起きたことをすべて肯定する、彼の人生の旅です。
最初から読んで来た者からすれば、とんでもない終わり方です。「それはないよー」と思ってしまう。私も思った。
でも、ひょっとすると、これは私たちが日常的に行っていることかもしれません。
充たされない現実と向き合い、それが充たされるとき
充たされない現実と向き合い、それが充たされるとき、すべては過去の記憶となっていく。それも自分にとって都合のいい記憶として保管されるのではないでしょうか。
主人公が本人は意識していないにせよ、記憶を書き換えて生きているのではないかと感じるのは、電子書籍では15%ぐらい進んだときに感じました。
主人公はなぜか映画を見に行きます(忙しいのに)。
──引用──
上映される映画がSFの古典《二〇〇一年宇宙の旅》だったので、少しほっとした。何度見ても見飽きない。大好きな作品の一つだったのだ。
──引用終わり──
ところが、その直後、こういう文章で驚かされます。
──引用──
物語の半ばあたり──クリント・イーストウッドとユル・ブリンナーが木星行きの宇宙船に乗り込むところ──に差しかかったころ(以下略)
──引用終わり──
もちろん、この俳優たちは、私たちが知っている《二〇〇一年宇宙の旅》には出ていません。そもそもイーストウッドはブリンナーと共演したことはないでしょう。共通点は西部劇ですがブリンナー主演の『荒野の七人』は、黒沢明監督の『七人の侍』を原案としています。イーストウッドの『荒野の用心棒』はマカロニ・ウエスタンと呼ばれ、同じく黒沢明監督『用心棒』を意識した作品です。
とはいえ、これを同時に見たとしても水と油ほどの違いがあり、混同することは考えにくいと思うのですけど。
つまり主人公は無頓着とも言えるほど、自分勝手な記憶で生きているのです。
こうなると、その後に起きる現実(らしきこと)のすべてが信用できなくなっていきます。
主人公の移動を正確に再現することは難しい。彼はこの作品でさまざまなところへ行くのですが(乗り物のバリエーションも豊富)、あっけなく覚えている場所に出るかと思えば、見えているのに辿り着けないといった事態も起こります。
この作品がもし、4幕ものの芝居だとすれば、場面転換の装置によって、舞台上ではこのようなことは現実に起こり得ます。
カフェのドアを開けるとホテルのロビーといったことは、芝居では普通にデザインされることでしょう。
だが、現実にはありません。
もしこの主人公が町という名の舞台に降り立ち、そこで4幕の芝居をして去っていくだけだとしたら、こうしたことは起こり得るのでは?
老ポーターのグスタフに起きること、ブロツキーに起きること、ゾフィーとボリスに起きることなどは、現実なのか舞台の上の出来事なのか。
それとも、著者はこの作品をマトリョーシカのような構造にしている可能性も考えられます。
幾重にも重ねられた自我の、どの階層にアクセスするかによって、現実は歪んでいくわけです。扉を開けるとホテルの廊下に戻ってもいい。都合のいい人に突然出会っても構わない。それは「認知」の問題とも言えます。
もしかすると、ボリスは主人公の子供の頃の記憶であり、シュテファンは彼の青年時代かもしれない。
後半、存在感が増すミス・コリンズは、彼の想像による彼を生む前の母親かもしれない。するとブロツキーは彼の父親になるのだろうか……。または未来の主人公だろうか。
さまざまな憶測をしながら、私はこの作品を読み進み、読み終えたのちに振り返るのでした。
スラップスティック、ブラックジョーク
たとえばこの作品を芝居として視覚的に考えたときには、爆笑を誘うであろうシーンがいくつかあります。死んだ犬を抱えたブロツキーを町の誰もが目撃するのですが、それが塀の上に顔だけを出した姿で描かれます。悲しいのに、笑ってしまう。ブロツキーという人間の存在は、映画で言えば『バットマン』(1989年公開)で、ジャック・ニコルソンが演じたジョーカーだとか、『ビートルジュース』(ティム・バートン監督)のマイケル・キートンを私は連想するのです。
余談……。たまたまですが、キートンはその『バットマン』ではバットマン役なのですが。また、『ビートルジュース』にはウィノナ・ライダーも出ています。この「ライダー」(Ryder)は主人公ライダーと同じ綴りです(偶然でしょうけどね)。
フィオナ、インゲ、トルデという3人の女性たちの役割も気になるところです。
スラップスティック、ブラックジョークになり得るシーンはいくつもあります。ただ著者は、そうは描いていない点にも注意しなければなりません。読者はそのシーンを思い描くことで苦笑したり笑えるかもしれませんが、筒井康隆なら爆笑必至となるところを、著者はそうは書いていないのです。
後半に起こる足を巡るスラップスティックは、ほとんど「モンティ・パイソン」の世界ですが、ここでも著者はそうは書いていません。
一人称の作品であり、主人公のライダーは現実に起きている喜劇を、喜劇とは認識していないからではないでしょうか。これは、翻訳の問題かもしれません。それを考えるほど私は精通しているわけではないし、訳者は著者と連絡を取り合っているのでそんなおかしな訳ではないと信じていますけども。著者がテレビの脚本なども手がける才人であることを思えば、わざとそう表現しているとしか解釈できないと私は思います。『日の名残り』で見せたアイロニカルな喜劇的シーンを思い出せば、これが著者のやり方かもしれないと思ったりもするのです。また著者は1950~60年代の日本映画なども好きだというので、日本映画における「喜劇」の表現を試している可能性も捨てきれません。現代の私たちは、古い日本映画でとくに「喜劇」と呼ばれる作品を、当時の日本人のようには楽しめないのです。
そもそも、主人公ライダーはいつでも現実に向き合うとき、自分が対応すべきミッションかのように扱います。そういう人間なのかもしれません。その「おかしみ」を感じることはできると思います。おかしみは、やがて哀しみになっていきます。
この作品のラストは、まさにそこはかとない哀しみではないでしょうか。この主人公であるとか、本書の描き方などに憤っている私たちもまた、同じようなことをしているのではないでしょうか。
そして、永遠に充たされない者であることを、自覚しつつ忘却していくのかもしれません。
参考
本書には、音楽についての記述はとても少なく(主人公が音楽家ですけど)、登場する作曲家や作品の多くは架空のようです。たとえば、コンサートで主人公が弾くのはヤマナカの《地球の構成──オプションⅡ》、マレリー《石綿と繊維》などとなっていますが、どちらも実在していないようです。現代音楽ですね。
また、シュテファンがこだわっている「カザン」という作曲家も存在しないようです。
プルーストの「失われた時を求めて」はいろいろな翻訳が出ています。現時点でアマゾンの読み放題に入っているのはこちら。
なんと、映像化に挑戦したこともあるようです。
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