爽やかな革新的で反逆的な精神『調書』(J・M・G・ル・クレジオ著、豊崎光一訳)

Sunset Beach Family Tourists Coast  - eserrano13 / Pixabay

 

 ※これは書評ではありません。本に出合い、本を読み、本を感じたときの話。

この本をつい手に取り、ミステリーかと思い……

 古書店にときどき行く。最近は眺めることが多く、買うことは少ない。正直、必要な本はアマゾンやhontoで電子書籍または紙の本で入手することが増えているからだし、さらにセールなどがあると不必要な本までつい手を出すため、電子的な積ん読も発生している。
 だけど、私は古本で育ったと言ってもいい。本との出会いは年の離れた従兄弟がくれた本(つまり古書店に売れなかったか売りそびれた本)だったし、お小遣いが少ない時期は近所の古本屋で買うことが多かった。まず「文庫」という素晴らしい世界を発見したのが大きかった。文庫に夢中になっていたのだが、その時の最初のアイドルがコナン・ドイルだった。少年少女版ではない「大人の」シャーロック・ホームズに感動し、読み漁った。「推理小説を軽くみる大人は多いけど、きっとちゃんと読んでいないんだな」と子ども心に思ったのである。
 すぐに同じ文庫でも古本ならバカ安ということを知り、そっちに転じた。社会人になるまで続いた。忙しくなると古本屋を巡る時間がなくなっていき、部屋のニオイも新刊本中心になっていった。

 それでも、いまでも、古書店はつい見てしまう。「買わないぞ」と心に誓って。

 そんなある日、この本をつい手に取り、ついパラパラと見てしまい、つい買ってしまった。

 最初に目に入ったのは、この新聞風に組まれたページだった。タイトルが『調書』ということもあって、「ミステリーではないか?」と思ったのである。新聞記事に手掛かりがあるのかもしれない。

 次に奥付を見た。

 そこそこ売れた本なんだ、と思う。ただ、60年代のベストセラーという感じではない。おそらく昭和のこの頃は、普通に本は売れていたはずで、このペースはまったく普通の売れ方か、あるいは少ない方ではないかと勝手に想像する。それなのに、どうして古書店にあったのだろう。

 1966年は、昭和41年である。『ウルトラQ』がスタートした年だ(ということは、そのあと『ウルトラマン』が登場するわけだが)。あの渦のようにぐにゃっとしたところから逆回しでタイトルになるモノクロの放送だった。いまでも大好きな「サッポロ一番しょうゆ味」が発売された(ということは明星食品「チャルメラ」も出るわけだが)。この頃に若者だったら、ビートルズ来日で時代感覚がわかるだろう。ちなみに、私はこの年の映画「サイボーグ009」「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」を見ているのに「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」だけ行けずに悔しかった思い出がある(前年の「フランケンシュタイン対地底怪獣」は見たのに)。直木賞は五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』など。私は『ドリトル先生シリーズ』と『シートン動物記』に夢中だった(親に馬車道の有隣堂またはダイヤモンド地下街の有隣堂で買ってもらうのが楽しみだった)。

この消し方はなんだ、どういう指定をしたのか?

 でも、不思議とこの本、もし私がその頃、いまのように本を読む人間だったら、買っていただろうという気がしたのだ。気がしちゃったのだからしょうがない。買うのである。
 さらにページをパラパラすると……。

 この消し方はなんだ。これは原稿にどういう指定をすればできるのだろう……。

 ありゃ、なんか空白があるぞ。

 文字を線で消してある。

 ふと、「これは活版かな」と思った。そう、いまのように電子的に版下をつくるわけではなく、電子写植でもなく、たぶん66年だったら活版だろうか。文字を組んでいたのか? Adobeが出来たのは1982年だし。でも写研やモリサワはあったはずだから、写植かもしれない。→電算写植の歴史-印刷100年の変革
 日本で電算写植が普及したのは「第2世代写植機」からと上記の記事ある。『日本における自動写植機の歴史は1960年に写研が発表した「サプトン-N」』と記してあった。ということは、写植でもおかしくはない。だが、その次の文章に「サプトン-N」は新聞組版に活用された、とあった。『そして1968年に一般印刷用の「サプトン-P」と「サプデジタ-P」が開発された』。

本当の意味の「活字」ではないか?

 ということは、1966年は一般印刷用電算写植以前ということになる。文選さんが文字組したのか。このややこしい本を?

 フリガナをこんな風に入れて。この字割り。

 この字間。

 すべて人が、手作業で組んだものではないか。

 というわけで購入して気になるので読み始めた。家で読むときに帯に、カフカ、サルトルの名があり、ミステリーではないのだと気づいたけども、上記のように読む側は完全にミステリーとして購入時点からのめり込んでいる。

 おまけに冒頭で、コナン・ドイルの名が登場するのだ。

 半分ぐらい読んだところで、『調書』というタイトルからして、これは犯人(あくまでミステリーと思って読んでいる)の残した手記なのかもしれないなんて、思っていたが、それにしてはとてもユニークで別の意味でおもしろい。
 視点が不思議な漂流をするのである。主人公のアダムが見ている物を描写し、そのまま見ている物に視点が移ってしまう。
 私たちをさまざまな仕掛けに誘ってくれた筒井康隆が、おそらく最初の単行本『48億の妄想』を刊行したのは1965年らしい。同時代性、シンクロニシティを感じる。→さすがSFの巨匠。45年前にこれほど未来が見えようとは・・・

2008年、ノーベル文学賞受賞……だった。

 半分ぐらい読んだところで、「この著者のほかの本も読みたいな」と思ってしまい、うっかりGoogleで調べてしまった。すると、なんだ、「2008年、ノーベル文学賞受賞」。
 だから古本屋にあったのだ……。おそるべし、古本という名のフィルター。→ノーベル文学賞に仏のル・クレジオさん(朝日新聞)

 古書店にある本には、すべて理由があるのだよ、ワトソン君。

 恥ずかしながら、ノーベル文学賞の著者の、最初の作品を知らずに読んでいたのである。この事実は世間的にはすごく恥ずかしいことだけど、読む側としては理想的だった。少なくとも半分まではまったくそんな先入観なしに楽しめたのである。1966年にこの本を手にしていた人と同じとまでは言わないけども(なにしろ、こっちはすでに破天荒なさまざまな小説や映画を消費してしまっている)。

 村上春樹だって、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』を先入観なく読めた人はよかったに違いない。ノーベル賞候補になってから読むのは、不幸なことかもしれないではないか。

 こういうことがあるから、古本屋巡りをやめられないのかもしれない。

 あ、ここで、終わらせてもいいけど、まるで感想を書いていない。いや、そもそも感想は書く気がなかった。

爽やかな革新的で反逆的な精神

『調書』(J・M・G・ル・クレジオ著、豊崎光一訳)でおもしろいのは、その視点だと前述したのだが、小説ではいわゆる「神視点」と呼ばれる手法がある。三人称には、大きくわけて神視点と個人視点があるとされている(用語的に正しいかどうかは私にも不安があるけど)。
 つまり物語の語り手が、すべてを見通して理解してしまっている立場で「こいつはバカだろ? こんなこともできないしさ。で、こっちはさらにアホなんだよ」的に展開する(誤解を恐れずに記述しています)。いわば日本では「落語」でよく見られる手法だ。
 つまり、この作品では自由に視点を移動しているようなのだが、一人称の「私」の部分もある。それはこの小説の書き手なのだろうと、多くの人は思う。ところが、本当にそうなのか?
 三人称なのに、中まで入り込んで断定しているかと思えば、中に入ることなく観察者である場合もある。文中には「僕」も登場する。登場人物が自分のことについて語るのである。
 読む側は「騙されないぞ」と思っているので、かなり疲れる。振り回される。それでいて、読後はなかなかに爽やかなのは、やりたいことをやり切った感じがあるからか。

 訳者のあとがきでも、本書について考察されているのだけども。ほかの本も読め、と書いてあった。主人公の名が「アダム」である点にも注目しろという。これが旧約聖書などによるところの、創造主によって創られた最初の人間を表しているのだとすれば、まさにこの本は「神視点」で書かれていることになる。

 聖書を読んだことのない人でも、アダムは禁断の木の実を食べたことで楽園から追放されることは知っている。では、本書のアダムはどうしてこの世界から追放(孤立)されているのだろう。彼はいったい、なにをしたというのだろう。

 どんな本にも、ミステリーはあるのだとしても、本書は冒頭にコナン・ドイルをある典型として登場させることで、ミステリー(推理小説)的な結末がない作品を目指したと考えられる。物語は必ず犯人が捕まり、真相が明らかになる。著者はそっちじゃない方向へ進んで行こうとしたのだろう。そうしたとしても、物語は完結するのだろうか。
 私は完結していると思うものの、神視点はズルいという気もしなくもない。少なくともミステリー(推理小説)としてはフェアではない(だから、これはミステリー小説ではないのだ)。

 いまはネットで探せないのだが、2017年当時は在日フランス大使館にある記事にノーベル文学賞の受賞理由として「断絶、詩的冒険、官能的陶酔の作家、支配的な文明を超えた人間性の探求者」とされていて、本書を読んだあとからすると、うなずけるようで「?」ともなるのだが、実はその記事の代表作に、本書は入っていなかった(『砂漠』、『黄金探索者』、『黄金の魚』、『発熱』、『大洪水』など)。

「初期の作風は狂気や言語といったテーマが中心で、革新的で反逆的な精神を物語っています」とあり、まさにこれが初期の狂気であり、反逆的な精神なのだろうな、というのはわかる。だけど、そんなことを言ったら、大多数の小説は狂気と反逆的な精神で成り立っているのだから……。

 こうなったら、代表作も読んでみないといけないのかな、という気にはなった。そのために古書店に行くべきだろうか。それともネットで検索するべきだろうか。

 しばらく迷ってみようと思う。
 なぜなら、本との出会いは必然だからだ。自分に本当に必要な本なら、必ず出会うのである。

(かきぶろ2017年03月21日、2021年3月25日修正)

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本間 舜久

投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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