こんにちは。本間舜久です。
 カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)の作品を全部読もうとしております。
 「カズオ・イシグロ 文学白熱教室 完全版」を見て思ったこともご参照ください。
 ここでは読んだ本を簡潔に紹介します。以前に「かきぶろ」に掲載したものを元にしていますので、元の原稿にリンクさせています。順番は新しい作品から第1作へと遡る順に並んでいます。

『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ著、土屋 政雄訳)

『The Buried Giant』(2015年)の邦訳。週刊誌の書評を読んですぐ読み始め、夢中になり「だったら全作を読んでみよう」と思わせた作品です。読んでよかったというのが正直な感想です。芝居として舞台で上演できそうなほど、濃密な場面が連続します。それは、後半になるにつれて濃さが増していきます。
 読んでいて、先に急ぎたい気持ちと、ゆっくり読み進めたい、噛みしめたい気持ちがいったり来たりします。これは登場人物たちも同様なのです。
 アーサー王亡き後、いかにも平和になったブリテンですが、そこには野望をいだくサクソン人(ゲルマン系)もいます。人が少ない荒野では、不思議な存在が登場します。そういう世界なんだ! 映画『ロード・オブ・ザ・リング』、各国の民話や伝承にも通じる基本的な舞台であることから、懐かしく感じるのかもしれません。
 記憶を失うことのいい点と悪い点。思い出せない苦しみもあれば、忘れることで得られる平和もあります。登場人物たちは、その中で苦しみ、もがきながら旅をするのです。
 この作品のとくに優れた点は、言葉の持つ重層的な意味をうまく使っていること。視点の転換の鮮やかさ。表現の巧みさ。深みがあり、ふと読む手を止めて思いにふけりたくなるかもしれません。
 最後の場面。ここの解釈も読者によって違うかもしれません。結局、男と女の普遍的な話なのでしょうか。それとも――。全文へ。

『日の名残り』 (カズオ・イシグロ著, 土屋 政雄訳)

『The Remains of the Day』(1989年)の邦訳。著者の3作目。ブッカー賞を受賞。映画化(1993年)もされており代表作と言えます。主人公は、イギリスの伝統的な執事。しかも第二次世界大戦をはさんで、親子二代の執事。戦争によって、時代は大きく変わります。主人公の使えている屋敷は、英国人から米国人の手へと渡ります。また、元の英国人は大戦中にはナチスドイツとの外交に関する役割などから、不名誉な終わり方をしているようです。
 執事といえば、英国ミステリー小説などでお馴染みで、その厳格で鼻持ちならないイメージが多少なりとも流布していると思います。
 この作品が一筋縄ではいかない理由として、その執事自身が語っている点です。
 カズオ・イシグロの作品の特徴として、記憶と感情の関係性を浮き彫りにする傾向があります。このため、主人公の記憶は本当に正しいのか、正直に語っているのか、とても疑わしい。
 彼の言う言葉をそのまま受け止めていいものかどうか、考えながら読み進めることになります。わざと「退屈な執事」を演じている部分では、とても退屈になるように書かれていますが、それも含めての「おもしろさ」なのだと思います。
 控え目ですが、ユーモアもかなりあって、それが前二作と違い、読者にとってはホッとする部分です。
 そして、この作品は、切ないラブストーリーとして心に残ります。全文へ。

『浮世の画家』(カズオ・イシグロ著、飛田茂雄訳)

 1986年にウィットブレッド賞を受賞した第2作『An Artist of the Floating World』を翻訳した『浮世の画家』です。
 正直、きわめてそそられない題名。ゆったりと語られていく作品。日本が舞台です。主人公の日本人の画家による一人称。現在から過去を思い出していくので、記憶については常に懐疑的です。確かにそう言ったはずだ、と思いつつ記述していくのですが、読者から見れば「間違いではないか?」「思い過ごしではないか?」「勘違いではないか?」と疑問を持ちながら読むことになります。
 主人公は戦前、戦中、戦後と生きて、その時代に青春を過ごし、絵に対する情熱を燃やしました。時代の変化によって、正しいと思った方向に進んできたはずでした。それが戦後に価値観が一変し戸惑っています。自分の感じてきたこと、やってきたことが間違いだったかもしれないと考える中で、どれが正しく、どれが間違っていたのかを思い返していきます。
 ときには、エゴイスティックに「自分こそ正しい」と主張したり、画家としてのポリシーについて頑なに自分の考えを突き詰めようとしたり、それでいて家族の言葉に耳を傾け、「いまの考え方」にも理解を示す。理解をしつつも、「でも、そこは違う」と言いたくなったりします。
 読者としては、人間というものが持つ尊大さ、思い込み、間違ったことについての捉え方、記憶のどの部分を評価するか、といった面を考えさせられながら読むことになります。
 芸術とは? 野心とは? 自分の思うままに生きることとは? さらにそうやってきた人生を、私たちはどのように肯定するのか。または否定するのでしょうか。全文へ。

『遠い山なみの光』(カズオ イシグロ著、小野寺健訳)

『A Pale View of Hills』(1982年)の邦訳です。これが最初の長編作品で、英国の王立文学協会賞を受賞。9か国語に翻訳されたところから、世界的に注目されていきます。邦訳では別に『女たちの遠い夏』というタイトルでも出ています(ちくま文庫)。
 日本とイギリスを舞台として、章ごとに変わるような構成。主人公(悦子)は英国に暮らしています。主人公の半生にはほとんど触れていません。長崎では彼女は妊娠しているのですが、その長女(景子)がどうなったのかは、英国の場面で下の娘(ニキ)との会話の中で語られます。主人公は景子を失って、自分が日本にいた頃を思い出しているのです。
 戦後間もない長崎。まだ原爆と敗戦から癒えていないどころか、その過程の真っ只中です。主人公の近所に越して来た母(佐知子)と子(万里子)の話、没落した上流階級の人がやっているうどん屋、義理の父と夫、夫の友人らのエピソードを重ねていきます。舞台劇を思わせつつ、同時に小津安二郎の映画を彷彿とさせるようなリズムが全体を通して流れています(この点は『浮世の画家』も同様です)。モノクロの戦後の日本映画をゆっくりと見た感じ。
 大きく印象に残るのは、義理の父の戦前の価値観が古いものになってしまったこと。『セールスマンの死』(アーサー・ミラー)を彷彿とさせます。
 佐知子と幼い娘の万里子は、単なる挿話というよりもむしろメインの存在感です。揺れる佐知子の心や、1人でふらふらとどこかへ行ってしまう万里子の存在、そして猫をめぐるエピソードも印象的。
 直接は言葉にせずに読者の感情を揺さぶる巧みさ。
 全体に「繰り返し」が、独特のリズムをつくっています。2回目は印象が変わったり、受け止め方が変わる。この変化こそ、著者の独特の世界です。静止画のように、大きな動きのない作品ながら、NHK「カズオ・イシグロ 文学白熱教室 完全版」で著者が言っていたように、こうした情景が著者の脳裏にはしっかり残っていて、それを言葉できちんと残そうとしたのだという点を再確認できました。全文

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本間 舜久

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投稿者プロフィール

小説を書いています。ライターもしています。ペンネームです。
カクヨム

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