自分を変える力を持つ『勉強の哲学―来たるべきバカのために』『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉雅也著)

『勉強の哲学―来たるべきバカのために』『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉雅也著)
概要
著者は、博士(学術)で、東大卒後、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了、命館大学大学院先端総合学術研究科准教授(執筆時)。哲学、思想の専門家であり、ツイッターなどでも日常的に発言をし、小説も執筆(『デッドライン』(第41回野間文芸新人賞、第162回芥川賞候補)。
『勉強の哲学―来たるべきバカのために』は、大学生に向けて受験勉強とは違う勉強の方法について語った講義を元に書き下ろしたもの。『メイキング・オブ・勉強の哲学』はその後に反響などを受けて対談や質疑を通じて再確認できる本となっている。合わせて読むことで、より自分のこととして考えることができるだろう。なお、書籍版、文庫版、電子版と内容に多少の違いがあるので注意したい。私はhontoで電子版を入手した。
自分を変える力を持つために
『勉強の哲学―来たるべきバカのために』には佐藤優による解説「究極のビジネス書」がある。著者自身、自己啓発書の構成などを下敷きにして(自己啓発書のパロディーとして)の一面もあることを記しているのだが、本書は大学生に限らず、広く生きていく上で必要な考え方がわかりやすく整理されている。その意味では「究極のビジネス書」である。
どこが究極かと言えば、ハウツーとしても読めるが、ハウツーを自分で生み出すハウツーも記されているからだ。魚の食べ方だけではなく、釣り方、さらには養殖方法まで書かれているようなものと言えるし、それどころか魚以外の未知の食物を生み出す方法まで書かれているからだ。
それは、自分を変える力を持つことだろう。勉強は、自分を変えるのだ。日々、「知らなかったことを知る」だけで認識が変わり考え方も変わっていくことがある。それを偶然に頼るのではなく、また他人から押しつけられるのではなく、自ら発見し取得していく方法を詳しく描いている。だから哲学なのだ。
よく耳にする「勉強の仕方がわからない」「なにを勉強すればいいのかわからない」から脱するための方法が本書で明らかにされている。
もはや私たちは自分たちの中にあるもの、経験したものから学ぶ対象を容易に見つけ出し、そこから学びを発展させることができる。同時に、勉強には切りがないので、どこで区切りとすればいいのかも、本書はわかりやすく提示している。
本書を読んでもっともよくわかったことのひとつは、勉強方法は自分で生み出すことだろうか。
おそらく、読者の中で勉強に関して手応えや成功体験のある人なら、「自分流の勉強方法」を持っているのではないだろうか。なぜ、勉強をある程度のレベルまで高めていくために、勉強方法を自分で生み出すことが大切なのかも、本書で解き明かされるだろう。正直、『勉強の哲学―来たるべきバカのために』にはわかりにくいところもあるが、『メイキング・オブ・勉強の哲学』によって、「そう解釈してもいいんだよね」がわかるので、合わせて読んだ方がいい。また同じ本を読んだ者の感覚を共有できて楽しい。
コロナ禍のいまだから勉強!
私個人として最近感じることは、教える喜びよりも、生徒であり続ける喜びの方が大きい、ということだろう。最初のうちは教える楽しみがあるのも事実だけど、やっぱり学ぶ方が圧倒的に楽しいのである。学びを停止したとき、自分はそこで終る気がする。学問的な学びだけではなく、YouTubeでちょっとした修理の仕方を教わる、いままで以上においしくなる調理法を知るといったことも学びの一つで、間違いなくそこで私はとても日々が楽しくなり、満足度も上がるのだ。
ただ、散発的な学びでは、深みも広がりもない。私はたとえ、新しい調理方法を知ったところで同じことはできるけど、それを応用して新たな調理方法を生み出すところまではいかない。なぜか。それは第三章にあるように、自分の欲望年表を作ることから明確になる。「自分の享楽的こだわりによって足場を定める」(『勉強の哲学―来たるべきバカのために』第三章 欲望年表を作る)ことから、自分ならではの勉強ははじまるからだ。
おそらく多くの人は、受験勉強によって自分のこだわりとは無関係な知識を詰め込む作業に長時間耐えてきたことと思う。だが、そこからはなにも発展しない。得たのは知識だけである(おまけにそれも陳腐化したり修正されていたりする)。アップデートできない知識は、それだけ自身のこだわりとは無縁だったからに違いない。一方、無理やり詰め込まれた知識の中でも、自分のこととしてその後も深めている知識もあるはずだ。おそらく、そうした学びについては、自分なりの学ぶ方法が確立されていて、それをいまも継続しているのではないだろうか?
だとすれば、もしかしたら、中途半端なまま放り出さている「自分の享楽的こだわり」があるかもしれない。これは、いかにももったいない。欲望年表とサブの欲望年表から、人生のコンセプトが立ち上がってくる。そこに気付くことで、新たな勉強がスタートする。「現代は、まさしく『勉強のユートピア』なのです」(『勉強の哲学―来たるべきバカのために』はじめに)との宣言も高らかに。いまの時代、自分の勉強したい気持ちを阻むものはなにもないのだ。
コロナ禍によって失われたものが多数ある中で、私自身はなにかを獲得できたに違いない。それは本書によって導かれたのだ。ニュートンが万有引力を発見したのは、ペストの蔓延によって大学が閉鎖されていたからだ、という話もある。
いまこの瞬間にも、多くの人たちが、自分ならではの勉強からなにかを生み出しているに違いない。それが希望だ。
哲学入門、さらに読書術の入門書として
著者のフィールドである哲学を背景とした本書は、絶妙なチューニングによって奏でられる哲学の歌でもある。ちょっといままで聞いたことのないコード進行であるが、それも著者の組み立て方、学び方を知ることで、その中から生み出されてきた必然の旋律だとわかる。主に、ドゥルーズ、ガタリをはじめとした現代思想の変遷が垣間見え、もしもこのあたりが琴線に触れればさらに突っ込んで哲学を勉強していく道がきちんと提示されている。つまり哲学の入門書でもある。
さらに「第四章 勉強を有限化する技術」では、「読書は完璧にはできない」など、勉強するにあたって必要な読書方法についても、詳しく語られている。これは、あらゆる分野で有益な考え方だろう。
そもそも、読書をしなくてもファクト(事実)や知識は、ネットで入手できる。ただ、それでは学びにつながりにくい(私が新しい調理方法を知るのと同じだ)。ある程度の量の読書をすることで、それは学びとなって自分の中に蓄積されていき、他の事象とのつながりが見えてくるのである。そこに発見があり自分なりの発展の道がある。
また『勉強の哲学―来たるべきバカのために』の「補章 意味から形へ」では、小説、詩、絵画、音楽などアートへの展開にも触れていて、人の営みに不可欠な学びのあり方として体系化されている。著者はこの延長として自身、小説を執筆したのだろう。無から有を生み出すための勉強である。
良書の条件をすべてクリア
本書が私の考えている良書の条件をすべてクリアしていることは間違いない。
あえて、条件を明示すれば、次のようになる。
●私のために書かれていること(万人向けである必要はないけど、自分に言葉が届かなければ読む意味がない)。
●読んでいて、いろいろなことが思い浮かび、じっとしていられなくなること(刺激的、新鮮な語彙、未知の世界、いまに直結するなにかがある)。
●人に話したくなる(いまこれを書いている理由でもある)。
●ある程度の普遍性がある(賞味期限が長い。およそ10年以上)。
●奥が深い(今回ここに記したほかにもさまざまな語りたくなるポイントが満載)。
●最後まで飽きずに読める(これは読み手としての私の問題でもあるが、構成や語り口が重要なのも確か)。
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